派遣録77 闘病記⑥ リハビリ
一般病棟へ
手術後、両親は毎日来た。
有り難かったか、情けなくもあった。何故なら俺の様態はあまり回復しなかったからだ。
弟が来た。
両親は弟には俺の病気(脳腫瘍)を教えていなかったので非常に驚いていた。(弟は独り立ちしていた)
天井しか“見られない”俺は、人生に絶望しかけ、両親の事を弟に任そうとしだが、それでも“ここから”回復したくて、その事は言わなかった。
そして、年金事務所から所長と適用調査課の課長が来た…らしい。
俺は脳髄に炎症を起こして意識が朦朧としていて、あまり覚えていない。
頭から管を出した姿を見られたくなかったので、あとから聞いた俺は恥ずかしかった。
そこ(病室)には見舞いに来ていた母親がいたらしく、後から聴いた。
「とにかく、今は安静に…」
そんな話を所長と課長はしたらしい。
俺としては手術前の『準職員採用試験不合格』の事があるので、顔を見たくなかったが、この二人(所長&課長)に怒っても仕方がない。
二人の年金機構職員は、ベッドで虫の息の俺を見て、どう思ったのか?
何も想わなかったのかもしれない。
交際していた彼女も、わざわざ大阪から来てくれた。
その彼女の前で“戻して”🤮しまい、俺は本当に情けなかった💧
そして、少し口論になった。(寝ているのに…)
個室で過ごす内に、桜🌸が咲いたことを看護婦が教えてくれた。俺のいた個室には窓があったが、頭から管を出している俺には景色などを確かめることができなかった…。
そのまま1ヶ月が過ぎた。
2011年5月のGWが過ぎた。
看護婦が桜🌸が散った事を告げた。
ベッドで寝たり、“天井”を眺め、いろんな事考えた。“一生このまま”という悪夢も見た。
何故か、彼女と南の島で暮らす夢、以前、“自らを排除したバカ野郎たち”の夢、この少し前に死んだ飼い犬🐶の夢、…などを見た。
手術直後悪く、食事は食べられなかったが、術後よりは多少食べられるようになっといた。
よく「病院♿🏥のメシは不味い」というが、浜松医大の病院食は旨かった。しかも種類を選べたりして、魅力的(海鮮丼とかうな重まで出た)だったが、手術の後はロクに食べられず、申し訳なかったし、惜しかった。(その時は食欲ゼロ…)
最低限の栄養は、点滴で接種していたが、やはり身体は痩せた。10キロ落ちた。
一日中ベッドにいて、頭から管(脳髄液)が刺さっていた俺がだか、GWが過ぎて、頭の腫れが引くと、頭の中の脳室から脳髄液が“正常”に流れるようになった。
すると、“外付け”の管が外された。
初めは少しでも頭を動かすと、吐いてばかりいたが、この幸運は多少我慢できるようになった。というか、吐き気が少し収まってきた。
これで俺は少しだが、身体が動くようになった。
ベッドから車椅子で離れたりするようになった。
梅雨が迫る頃、松山医師(仮名)は俺を“一般病棟”に移動させた。
「もうリハビリできるね」と松山医師言った。
俺は言われるままにした。
というか、(…別にリハビリ無しでも動けるだろ?)と思っていた。
甘かった💦
肉体の“裏切り”
俺は一般病棟に移り、複数の部屋に入った。
すぐにリハビリが開始された。
俺は約2ヶ月、個室で“寝ていた”だけなので、すぐにスタスタと歩ける、と思っていた。
これがまるで違った。
車椅子から、リハビリの介護士が俺を立たせてくれたが、自立しようとしたが、全く立てなかった。自立できない。介護士が下半身を支えてくれないと立っていられないのだ。
足が震えた。
俺はここで己の足を初めて見た。
痩せ細り、以前の太腿🦵ではなかった。
病室にある洗面台で自分の顔を見た。
ガリガリに痩せ、丸坊主で後頭部に包帯を巻いている俺がいた。
(…これが俺?)
術後初めて自分を客観的に見た。
そして、俺は自分に失望した。
一般病棟に移り、俺は手術前のように“動ける”想像を勝手に思っていた。
『人間は信じたいことを信じる』とはよく言ったものだ。
2ヶ月近く寝たきりで、飯をロクに食べられなかった俺の身体は日常生活ができなくなっていた。
俺は自身の肉体の“裏切り”を感じた。
入院前には、日雇いで働き、年金事務所で倉庫な中です働いた、またジムのプールでよく泳いでいた。体力に自信があった。いや、それしか俺に利点はなかった。
それが、その肉体💪に“裏切られた”…。
初めてのリハビリの日、俺は一階のリハビリ室に行けず、医大の通路でした。
そして、数歩、歩いてすぐにゲロ🤮した。
俺はその夜、ベッドで泣いた💧
己の現状に絶望した。これが“今”の俺か?💧
空間認識能力
俺が一階のリハビリ室に行けるようになるまで、二週間かかった。
俺のリハビリを担当した介護士の“若林”(仮名)は、俺が自力で立てるようになるまで、リハビリ室に俺を向かわせなかった。
…というか、行こうとして医大のエレベーターでまた“吐いたり🤮”して、大変💦だった。
どうにか行けるようになり、俺のリハビリが本格的に始まった。
リハビリ室には、俺のような脳疾患(卒中、脳梗塞、くも膜下など…)の患者がたくさんいた。
ほぼお年寄り🧓だ。
初めて来たとき、俺の前にいたおばあちゃんが、プラスチックのカップを重ねようとして出来ず、空振りして、テーブルに当てていた。
まだ言葉が不明瞭な俺は、若林には言えなかったが、(…俺、こんな症状の人と同じなの?)と思った。
おばあちゃんがコップを空振りするのを見て、俺はここまでじゃないだろ?、と思っていた。(やっと来れたくせに…)
で、俺が同じリハビリをしてみたら、全くできなかった。
見ていたおばあちゃん並にコップは“外れた”。
重ねられない。
若林によると、手術で俺の頭の空間認識の部分が損害され、壊れてしまったらしい。
脳の疾患がある患者には、よくある症状だったらしい。
俺の身体のバランス、体力全てが狂っていたようだ。
俺はこの他に歩行訓練、体力訓練、さらには理学療法(言葉のリハビリ)をした。
若林といろんなリハビリをした。
ボールを真っ直ぐ転がすリハビリでは、真っ直ぐ転がしているつもりが、斜めに転がった。
自分の名前(ひらがな)を書くリハビリでは、自分の名前一文字の一文字のサイズがバラバラになったりした。
特に辛かったのは、『床に落としたピン(木)を言われ通りに拾う』というリハビリだ。
俺はこの最中に何回かゲロ🤮し、終わるとヘトヘトになった。
そして、歩行訓練は医大(病棟部)を歩き回り、階段を登り続けた。何度も転びそうになった。
さらに理学療法。言葉の回復訓練だ。
若い女(療法士)が担当だった。
👧「はい、鈴木さん、パピプペポ。はいどうぞ?」
俺「…は、ぱ、ひぴ、ぷ、ぺ、ぺ、ポウ…」
まるで幼稚園のような発音の練習をした。
言葉の呂律が戻らないのでかなり苦労していた。
こんな感じで、俺の2011年の前半は過ぎていった。
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