派遣録78 闘病記⑦
“汚い”話
若林(仮名、介護士)らとリハビリを続ける内に、俺の身体は次第に日常生活を取り戻せるようになってきた。
歩けるようになり、食事量も増えた。不明瞭だった言葉は多少会話が可能になった。
そして、一番嬉しかったのは、“排泄”である。
“汚い”話で恥ずかしいので書きたくないのだが、ここまで来たら、書いてしまおう。
個室にいる間(手術直後から2ヶ月弱)、俺は点滴で栄養を賄っていたのと、頭から管を出していた(脳髄液)ので、トイレにいかなかった。
なので、排泄が自力でできなくなっていた。
寝たきりになるとそうなるらしい。
頭の管が外され、一般病棟に移り、食事量が戻り出しても、排泄ができなかった。
では、どうやって“大小”をしていたのか?
まず“小”は、搾尿をしていた。それは“男のあそこ”にビニールの管を入れて、下腹部を押す。
成人男性が受けるには、かなり屈辱的な排泄方法だ。しかもしてくれるのが若い女性看護師だったりする。
なので俺は尿意を催し(それはある)、ナースコールを押す時、(男の看護師であれ!)と心から願っていた。
“大”の方は、何とか一般病棟に移ってから半月、全く“出なかった”💦
いわゆる“便意”もなかった。
一度、無理やり出したりした。
これが辛かった💧(汚い話ですいません🙏)
だが、これがリハビリを続けると回復した。
自力で、(両方とも)排泄できるようになったのだ。
ちなみに、俺が一人で“トイレができるように”なったことを担当の看護師がナースステーションで報告すると、多くの看護師が喜び、俺はいろんな看護師から「鈴木さん良かったね♪」と言われた。
やはり、成人男性を“搾尿”するのは、若い看護師からしても“大変”なのだろう。俺は今も感謝している。
決まっていた“2回目”
感謝する、というなら、俺のリハビリを指導してくれた若林(仮名)ら介護士にもそうだ。
リハビリ開始前には、必ず“病室の中にいる俺”に声をかけてきた。
これはリハビリを拒否した患者には、リハビリが出来ない決まりになっているらしく、辛く苦しいリハビリに乗り気ではなかった俺を、“あえて病室で声掛けすること”で、拒否しにくい(他の患者がいるから…)状況にしてくれていた。
リハビリをしたくなくて揉めている患者をたくさん見た。
また、若林はリハビリ終わりには、世間話を視ながら、疲れきった俺の身体をマッサージしてくれた。
有り難かった。
こうして梅雨を抜けると、俺の身体はかなり回復した。担当の若林も驚いていた。
言葉はまだ不明瞭。
幻覚も時々見た。
そして、主治医の松山医師(仮名)と今後の話をした。
実は俺の頭にはまだ腫瘍が残っていた。
一度の開頭手術では取り入れなかったのだ。
腫瘍が大きいのと、出血の多さから、一度目は半分ほどしか除去できなかった。
つまり、また“あの”手術をしないといけない。
だが、それには俺の身体のダメージが大き過ぎた。
なので松山医師は、一年後(2012,1)の再手術と、その前の放射線治療を勧めた。
(…まだあるのかよ)とは想わなかった。
この話は手術前から松山医師から聞いていたし、手術自体は避けられないのはわかっていた。
また立てて歩けるようになり、リハビリも順調になると、(…早く残りの脳腫瘍を取りたい)と思ってきた。少し前向きになっていた。
松山医師と慎重に話し合い、俺の“一時退院”が決まり、その年の夏には有名な放射線治療のクリニックに行く事が決まった。
そして、この放射線治療が俺を“さらなる”地獄へと導く事になる。
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