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【3・11、M9】大震災、大津波、原発事故

熊谷眞夫

盛岡[大震災]

二〇一一年三月十一日(金)十四時四十六分、この日本にとんでもない事が起こった。それは「マグニチュード九、〇」という体験した事のない予想した事もない大地震である。そして引き続いて起きた大津波、福島第一原子力発電所の重大事故である。「東日本大震災」と呼ばれる未曾有の大災害である。天地が引っ繰り返った様だとは、このような事を言うのであろうか。
私の実家は、今回、最も被害が大きかった陸前高田市にあったが、この大津波で一溜まりもなく飲み込まれ、何処かに持ち去られてしまった。
陸前高田市八千世帯の七割が被害に遭ったという事である。私は現在、実家から百キロ程離れた盛岡に住んでいたので、大地震には遭遇したが、津波の被害には直接遭わなかった。実家の家族がどうなったか心配であるが、この時点では連絡を取ることが出来ないし情報も得られない。
大地震が起きた時、私は盛岡の流通センター近くの病院に血圧などの薬を貰いに行って、帰宅途中の車を運転中だった。突然、車が上下左右に大きく揺れて、それが五分位続いたであろうか。一車線ギリギリの狭い道路である。車内放送のラジオからは、地震速報が流れてきた。
「大きな揺れが続いています。車を運転中の方は自動車を片側に寄せて身の安全を確保して下さい。緊急地震速報です」の放送が繰り返されている。
街中の狭い道路に車がギッシリと並んで停まった。とても片側に寄せる様なスペースは無い。両側にビッシリと家が建て込んでいて空き地などは 無い。両側の電柱や電線が激しく揺れていて、今にも頭の上に倒れてきそうな、家も倒れてきそうな、恐ろしいほどの揺れである。隣に乗っている次女も、
「怖い、こわい」
と言って空を見上げている。一瞬、車を乗り捨て娘を連れて逃げようかと思ったが、両側の家や電柱が倒れてくれば車の外の方が却って危ないかと思い留まった。とにかくこの場所は危ない。一刻も早く少しでも広い場所に脱出したいと思った。その時少し揺れがおさまってきて、私の前で信号待ちをしていた三台の車が、のろのろと動き始めた。信号は全て停電していた。横断の車の間を縫って少し広い通りに出た。車の行列はどこまでも、のろのろと続いていた。
交差点の信号機付近も大混乱である。広い通りである国道四号線のバイパスを横断して山の方にある松園の自宅に戻りたいと思うのだが、信号機が働かない優先道路を車で横断するのは容易な事ではない。国道の方は切れ目なく車の列が続いている。
一瞬の隙間を練ってどうにか潜り抜けて、何処をどう通ったのか、普段の二〜三倍の時間を掛けてようやく自宅に辿り着いた。あれほど大きな地震なのに、目に見える限りでは家屋の倒壊もなく、道路の破損もなく家まで車で辿り着けたのは不思議である。
家に着くと、妻が庭の入り口の小さなドウダンの木にしがみ付いて怯えていた。
何度もなんども強い余震が来て、どこの家でも、外に出たり、中に入ったりを繰り返している。車を庭の駐車スペースに入れて娘と外に出た。
途端にまた大きな余震が来た。向かいの奥さんが頭に座布団をかぶって、「怖い、こわい」と言って我が家の方に走って来た。この時間、どこも一人住まいの女の人が多いようで、家族がいる我が家の方に集まって来たようだ。あちこちに井戸端会議のような集団ができて地震の事を話し合っているようだ。
余震の合間を見ながら次は保育園に二歳の孫娘を迎えに行く。保育園もこの地震で、てんやわんやの大騒ぎである。建物の中は停電で暖房もなく危険なので園庭に大きなビニールシートが敷かれ、その上で泣き喚く子供、保母さんにしがみ付く子供で大変な大騒動であった。雪もちらちら降っている。
「着替など何も取りに行かずにお子さんを引き取って下さい」と保母さんに言われて、逃げるように孫娘を引き取り帰宅した。
市内に勤めに出ている長女(孫の母親)はどうなっているのかも分からない。電話が繋がらず連絡も取れない。暗くなった頃、「ただいま。私、歩いて来たよ。バスに乗ったけど大渋滞で進まないから、また降りてずぅっと歩いて来たよ。市内は真っ暗で大変だった」という事であった。ようやく家族が揃って一先ずほっとした。
暗くて寒く長い不安な夜が始まった。家中の懐中電灯、ロウソクを集めて食事の準備をした。この時さいわいな事に、水道とガスはまだ通っていた。土鍋で米を研いでガスでご飯を炊いて、味噌汁と有り合わせのおかずで夕食を済ませた。娘たちは土鍋でご飯が炊ける事に驚いているようだ。食事中も食事が終わった後にも強い余震が何度も来て、その度にロウソクを消して家族で外の避難を繰り返した。手回しで充電できるラジオがあったので、そこから地震情報を聞くことができた。
夜になっても何度も余震が続くので、コートやオーバーを着たまま食卓の周りに待機して避難に備えた。夜も更けて、各自布団に入ることになっても、コートのまま横になった。夜中にも何度か強い余震があり、その度に全員で外へ避難した。
夜が明けて、翌日十二日は土曜日なので保育園も娘たちの勤務も休日であった。こんな状態がいつまで続くのか…。或いは、もっと酷い災害になるのか。ラジオの情報では、
「この三日間以内に更に強い地震があるかも知れません。充分に警戒する様にして下さい。余震は一ヶ月或いはそれ以上続くかも知れません。充分に注意して下さい」
と繰り返される。どう警戒すればよいのか見当もつかない。当面、一日一晩を生きるための食料、懐中電灯、ロウソク、ホッカイロ等をどこかで買い求めたいと思いコンビニやスーパー、コープ生協の店舗などへ行ってみようと思った。
誰もが同じ思いで、どこの店舗にも長い行列ができていた。
「店は開くのでしょうか」
並んでいる人に聞いてみると、「さあ、私もよく分かりませんが、みんなが並んでいるので並んでみました」という応えであった。何店か車で回ってみたが、どこも同じで状態長い行列ができていた。私と娘は、大きな店舗が二つ並んでいる駐車場に車を止めて、とにかく並んでみる事にした。私の方は日用品を売っているホームセンターに、娘の方はコープ生協に並んだ。ホームセンターには既に百人位の人が並んでいた。前の人に「店は開くのでしょうか」と聞いてみると「さあ、私も分からないけど、並んでみました」という応えである。一時間位待ったであろうか。入口の方に店員の動きがあったようだ。
「あっ、店が開いたぞ」誰かが叫んだ。
十人ずつ店内に入れている様だ、という声が伝わってきた。途中、「ガスボンベが売り切れた」「電池が売り切れた」等の声も伝わってきた。
二時間位待って電池とロウソクと水タンクと懐中電灯の緊急用品から選ばせられて十品目を買い求めた。娘の方も、野菜や食料品などを買い求めてきた。往復四時間ほどの買い物である。夕暮れが迫っていた。家に帰ったら夜間の準備をしなければならない。断水もして不自由な日々が続いている。

陸前高田[大津波]

大地震のあった日(三月十一日)から二日経ち三日経ち四日経ちしても、盛岡から実家のある陸前高田市に連絡が取れない。家や町全体の建物は殆ど流失して、壊滅状態であることは、テレビの報道などで次第に明らかになってきた。
白砂青松で知られた日本百景の高田松原が消えて全く無くなり、懐かしい郷土の町並みがただ瓦礫の山と化しているのである。テレビ画面が間違って映し出されているのではないか、と思うほどの変貌ぶりである。
家は無くなっても、せめて実家にいるはずの肉親、兄弟だけでも無事避難して助かっていて欲しい。何とか情報が欲しいと思って県警や新聞社へも問い合わせたが、個人情報はなかなか得られなかった。電話が駄目なら電報を打とうと思ったが、受け付けていないという郵便局の答えである。ガソリンの心配はあるが、車で陸前高田市に行けないかアクセスを試みたが、途中で警察官が立っていて通してくれない。
「ここから先は、緊急車両の許可を受けた車両しか通せません。一般車両が交通渋滞を招いて緊急車両が通れなくなると困るからです」
「私が、肉親の安否を確かめに会いに行くことが何故出来ないのか。あなた達にそれを妨害する権利があるのか。それは何という法律に基づくものか」
「今、あなたと論争をしている余裕はない。私達は市町村や県の方から交通の権限を任されています。道路交通法の緊急時の対応です」
警察と論争しても、いくら粘っても埒が明かず戻る他は無かった。後で分かったが警察官がいない裏道を通って現地に入ったという人もあった様で、金はかかるがタクシーを頼んで入る方法があった様である。
地震から九十六時間経った三月十五日、希望ある情報が入った。次女がパソコンのGoogleという所で、避難場所になっている高田一中の避難者名簿に私の姉の名前とその友人の名前が乗っているという事が判明したのである。これは、飛び上がって喜ぶほどの情報である。しかしまだ予断は許されない。同姓同名の避難者が三人もいて、しかも一人は二本線で消されているとの事だ。
依然として盛岡市から陸前高田市には固定電話も携帯電話も通じない。どんな手段を講じても、実際に避難場所に行って確かめるしかない。翌日、知り合いのタクシーを頼んで現地に行き、本人だったら盛岡市に連れて来るのが一番良いという事になった。
大地震から五日目、三月十六日(水)の朝が来た。私の姪が知り合いのタクシーを頼んで盛岡市から陸前高田市までの百キロの道のりを、もしかして姉は生きているかも知れない、という希望を抱いて出発した。先発隊は姪と義兄が乗って行くことにした。私は迎える準備をして盛岡市で待機した。吉報であることを願って、はらはらどきどきの長い待ち時間である。何も手につかない。
夕方になって電話のベルが鳴った。
「もしもし、みーちゃん生きていたよ。今ここに居るよ。電話に出すよ」
「みーちゃん、良かった。こんなに嬉しいことはない。分かった、直ぐに会いに行くから。詳しい事はその時に、では」
その他にも何か話したかも知れないが興奮して覚えていない。兎に角、会いたい。妻と盛岡市内に住む姪の家へ行った。
「良かった、いがっただ。本当にいがっただ。みーちゃん、足も付いてるね。本当にいがっただ」思わず姉の両手を握ったら、独りでに涙が出てきて止まらなかった。私達は夕食も忘れて語り合った。
姉の助かった経緯を聴いていると、まさに奇跡というか、幸運というか、すべての条件が姉を助けるために働いてくれた様な偶然の連続であった。正確に話を再現出来るかおぼつかないが、姉の話を纏めると次の通りである。
《三月十一日、十四時四十六分。姉は一人で近所の高田町のリプルというスーパーに買い物に行っていた。レジに並んでいる時に地震が起き、突然電気が消えて、店員が「皆さん外に避難して下さい。商品はそこに置いて直ぐに外に出て下さい」と叫んだので、客は皆、精算前の商品をそこに置いて外に出た。ふと海の方を見ると、松林を越えて黒い波が近付いていた。「随分と海が近いな。こんなに海が近かったかな」と思ったそうである。急いで帰宅し、仏壇の両親の遺影の額縁を外し二階に上がって財布などの貴重品を持って階段を下りようとした階段がギシギシと揺れて落下しそうになったが、何とか外に出て車で高田町市内の方に向かった。米崎町の方に向かう車は行列を作って混んでいたが高田町方面に向かう車は殆どなくスイスイと進んだという事である。歩いている人もいなかった。目的地は洞乃沢というかなり高い場所にある友人の家である。友人の庭に到着した時に後ろから追い駆けて来た波が二軒ほど下の位置まで来ていたそうである。津波が自動車を追い駆けて来ていたが、間一髪で助かった》と、これがみーちゃんが助かった時の経緯である。
話を聴けば、本当に助かったのが奇跡としか言い様がない。全てが都合の良いように誰かが助けてくれたとしか言い様がない。私は無神論者であるが、この話を聴くと、もしかして神が助けてくれたのかも知れないと思ってしまう。それほどの不思議である。
私にはもう一人姉がいるが、老人ホームに入居していて無事である。その夫はその日、久慈市に出掛けていてこれも無事。家族は全員無事であった。何か、申し訳ない気持ちでもある。私の両親は七十年前に亡くなっている。私は両親の顔を知らないので、二人の姉が昔から両親のようなものである。早くに亡くなった両親が罪滅ぼしに姉達を守ってくれたのかも知れない。
今回の大震災はあまりにも巨大で、その惨状はあまりにも酷たらしく、これが本当のこととは信じたくないほど酷いもので、私は到底文章を書く気にもなれなかった。何かが抜け落ちて、蝉の抜け殻になったような気分である。明日から自分は何をしていくべきか、未だ朦朧としている。
         (同人誌の原稿〆切り迫る)

福島[第一原発事故]

大地震と大津波は天災であるが、原発事故は明らかに人災である。関東、東北地方に限られた問題ではなく、日本全体そして世界全体にも及ぶ地球的な問題と言ってもいいかも知れない。
メルトダウン(炉心溶融)が進み、冷却装置が回復出来ないという事になると、俗に言う「地球の裏側までも燃え広がる」というトンデモナイ事になる。
現在、日本には五十四基の原発が稼働中と言われている。世界有数の火山国であり世界で最も地震の多い国である日本。そして地球を覆ういくつものプレート(岩盤)の境界に位置しているこの地域で今回の大地震が起きている。
政府は更に新しい原発を十四基作る計画を昨年度に作成し、島根、福井、青森のように既に建設が始められている事も報道されている。この狭い日本に一基でさえ危険な原発を更に増やすとは一体どんな感覚なのだろうか。
政府の計画としては、世界最多の原発を約百基も保有している米国に迫ろうという計画が着々と進められ、巷では建設予定地を掲載した本が流布されている。原発は我々にどんな幸せを齎そうとしているのか。人間にとって原発はどんな意味を持っているのだろうか。全国民が、全人類が考えてみる必要があるのではないか。
昔、宇宙飛行士だった秋山さんが宇宙から地球を眺めた時に、日本だけギラギラ輝いているのが異常に見えたという意味の事を話していたと記憶する。その頃私は、ドイツのハイデルベルクに機会があり一ヶ月ほど滞在した事がある。まず、初めて行ったドイツの夜の暗闇に驚いた。テレビの放送も二〜三時間も流せば、ガーッという音に切り替わる。街の商店街は夕方には全て閉まる。自販機はどこにも設置されていない。勿論パチンコ屋
もない。日本での感覚からは考えられない生活である。ところが一週間も生活してみると、これはこれで住めば都である事に気が付いた。買い物は夕方までに済ませておけばいいだけの話である。夜はゆっくり本でも読めばいい。ムダな金もかからない。高校も大学も授業料は無償である。日本のような選抜試験はない。行きたい者だけが誰でも行ける仕組みが出来ている。
最近の報道で、ドイツでは原発政策から自然エネルギー政策への転換が進み、発電量の約十八%が自然エネルギーで賄える様になったという。これは今回の福島第一原発一号機の二十五基分に相当する発電量との事である。ドイツでは更に二〇二〇年には三十%以上に、二〇五〇年には八十%を目指す計画の様である。
今回の日本の原発政策で最も欠けていたのは安全性であった。原発に関する政府の見解では「苛酷事故や大量の放射線物質が放出されるような重大事故が起こるとは想定出来ない」として対策すら考えていなかったという事である。事故後はオロオロして自衛隊や消防隊に頼む始末である。本来は、第二、第三の責任ある防護対策を専門家や研究者も含めて配置して二十四時間体制で対応するべきではないのか。このような危険性を持った原発は、利益至上主義の民間企業には馴染まないのではないか。国民の安全を守るべき国が責任を持って全力で取り組むべきではなかろうか。
人災で起きてしまった事ではあるから、今は全力をあげて先進的な外国の研究成果や力を借りながら、この重大危機を乗り切ることである。まだ人類は、この原子力を安全に使い熟せる域に達していないのではないか。
政府は、一人一人の命を瞳のように大事に守って欲しい。美しい故郷をいつまでも守り、安心して
住めるような政治に切り替えて欲しい。自然は蘇るが、放射能で荒らした土壌は、人間が住むことさえ出来なくなる。これほど悲しい事があろうか。
折から行われている東京都知事選候補者の中にも、「東京に原発を建てよう❗」と言う人が現れたようだ。果たして東京に原発が建つのか。都民の選択に注目している。

               《完》











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