距離感という拒絶にも似た寂しさ

先日、あるところでグループ討議というか話し合ったんです。

テーマ 「仲良くなり過ぎると、どうなる?」

私はこのテーマを聞いた時、とても嫌な気持ちになりました。その予感めいたものの通り、話し合いを終えても私は数日間ずっと深く悩み続けることになりました。
久しぶりに鬱状態から抜け出すのが大変で、寝込んでいました。
正確にいえば、過去の自分の中途半端な思考段階に急に転落したような、思考が纏まっていない、違和感を感じているような状況に陥りました。
なぜこのテーマが私にとって地雷だったのかを考えてみました。

仲良くなって何がいけない?

そもそも「仲良くなり過ぎる」の「過ぎる」というのが引っかかった。
このテーマが指すのは恐らく友達についてだと思う。
親や兄弟、パートナーと仲良くなって困ることは無いし…
(待てよ?そう考えると、上司とか職場の人が前提だったとすると、私は無駄に死ぬほど悩んだことになる。その時に気付いて本人に確認すればよかった。なんて日本語はあいまいなんだ!)

別に仲良くなることに良い悪いなんて無いと思うし、困ることがあれば自分で加減すればいいだけ。「仲良くなり過ぎる」とはどういう状態なのか私にはイマイチ、いや全く分からない。
私はどちらかというと、なかなか「過ぎる」と言えるほど仲良く = 友達?といえるほどに仲良くなれないので、何がいけないのか分からない。むしろ仲良くなれていいことじゃないか?って思う。
だからといってコミュ障かというと、むしろそうではない。
(某サイトではコミュ力100%、コミュニケーションのオバケ、と出た…💦)
確かに誰とでも仲良くなったり、気さくに話したり出来ると思っている。
接客の仕事も他の人よりも得意だったし、好きだった。

しかし…である。
肝心の「友達」となると…いないのではないか?と思うわけである。
もちろん、「友達」の定義も曖昧であることを加味しても…である。
今何人か定期的にお茶する仲間がいるが、これはあくまで仲間であるし、仕事で出会って食事に行ったりやり取りする人もいるが、じゃあ遊びに行ったりするか?というと
そうでも無いし、それは「同僚」とか「先輩・後輩」ぐらいのものだと思う。
地元に帰って稀に会って食事したりたまに連絡をとる同級生がいるにはいるが、友達なのか?というと違うと思う。あくまで「同級生」。

私にとって、友達って?

私にとって友達って何なんだろう?
ちょっと理想っぽくなるかもしれないが、こうだったら関係を続けたいと思う点を書き出してみた。

・話しがあう、話しの傾向があまりズレ過ぎない。
・話のテンポが合う=話していて異常に疲れることはない。
・会話のキャッチボールが成立する。どっちかがマシンガントークは嫌。
・考えに共感し合える、またはリスペクトできる、または気持ち良くアドバイスし合える。または時に相手のことを思ってチクリと言うのはあり。

そういう相手ならば、次も会いたいと思うし迷わず食事にもお茶にも誘うだろうし、なんなら旅行にでも行くだろうし、家に遊びに行くだろうし、苦手な電話だってしたくなるかもしれない。そんな友達がほしいと思ったことは無い訳ではないし、一時期いなかったこともないでは無い。いや、むしろ今は欲しくて欲しくて仕方ない。

じゃあ、なぜ友達を作らない?作れない?

私が友達はいないと思うと言うと、周囲の人は驚く。
あなたのように明るくて話しやすい人が意外だ、と言われる。
私自身もその気になれば、そういう間柄になれるとは思うんだが…。

実は私は同性(男性)がとても苦手で、だいたい仲良く話せる相手が異性(女性)だ、というのも関係あるかもしれない。さらに厄介なのは、私の恋愛対象も異性なのだ。
だから、友達に恋愛感情を抱いてしまうことももちろん有り得る。
恋愛感情を持ってしまうと苦しくなってしまうし、友情にヒビを入れかねない。
もしも今私が女性なら、それもアリだと真剣に思うし、そうだったら良かったのに…とつくづく思う。
そもそも、異性が友達として仲良くなってくれて一緒に食事や飲みにまで普通に行けるほどに信頼し合えるようになれる人自体、なかなか巡り会えない。

もし巡り会えたとしても、自分から誘っていいんだろうか?相手は無理していないだろうか?と常に気にしてしまい、なかなか自分から言い出せない。
どちらか一方がイニシアティブを取っていたら、友情は深化しないと思う。
深化しても、長続きするだろうか…いや、そんな関係はどちらか片方の自己満な気がしてしまう。
異性だからという遠慮ももちろんあるが、どこかに友達というコミュニケーションに主体性を持っていないというか、従属的なのでは無いか?と思えるほど遠慮している節があると思えてきた。

従属的友達関係??

そもそも主従関係になった時点で友達では無いと思うのではあるが、何を言いたいかというと、自分は向こうが言ってくれるのを待ってしまうというか、自分から誘ったり連絡するのをひどく躊躇ってしまう。苦手だから避けているようにも思う。コミュニケーション力高めなはずが、なぜだろうか…。

私は保育園の頃メガネをかけていたことから「ギョロ目」と言われて虐められていた。毎日登園するのが辛くて、当時のクラスメイトと安心して仲良く過ごした記憶がない。どこか、自分から離れないでくれ…という祈りのような気持ちを抱きつつの付き合いだったように思う。私を捨てない相手なら誰でも良かったのか覚えてはいないが、それぐらいの感じだったように思う。
小学校に入って仲良し女子グループといつも楽しくしていたが、担任の先生が産休し、代打がリタイア後の再任用の先生で、今だったら確実に問題になるパワハラ的指導ばかりしていたので、クラスの雰囲気は毎日ピリピリしていてとてもクラスメイトに気を使う余裕もなくなったことを覚えている。
小学校5、6年の先生は現役教師ながら以下同文。彼の怒鳴り声は学校中に響いていたし、1時間目は忘れ物が無いかチェックし、あると取りに行かされ、全員戻るまで授業は始まらないという…軍隊のようなクラスだった。
そして中学校の時は、いわゆるイジメに遭った。
1年の時、私は級長をやりたくなくて仲良しに、対抗馬に票を入れてもらって危なく回避したが、班長会メンバーになった。私の対抗馬=級長と、班長会のメンバーがイジメを繰り返していたので、私が止めるように言ったところ、今度は私がイジメのターゲットになってしまった。三年間地獄の毎日だった。他のクラスメイトはイジメで不登校になってしまっていた。今思えばとんでもないクラスだった。

私は運が無いのか、友達という人間関係の大切な感覚を養うタイミングをことごとく逃してしまったように思う。

保育園の頃に肌感覚として友達という関係を会得することが出来なかったこと。
小学校の頃の、友達という安定した人間関係を経験出来る機会が減ったこと。
中学校で、それまで仲良く話せた人達が、自分も虐められるのはいやだから…と避けられ、友達だと思っていた関係に大きな不信感を抱いてしまい、人を信じられなくなったこと。
当時の関係した人たちを責めるつもりは無いが、この経験の影響は大人になった私の心にいまだに大きな影響を残していると思う。
相手が自分の元から去ることに怯えると同時に、自分が友達だと思ったり誘ったりしたのに、友達ではなかったとか断られることで凹むのを極度に恐れているのかもしれない。だから友達関係を深めることに躊躇し、友達を作れないのかもしれない。

距離感ということば

仲良くなり過ぎるとどうなる?というテーマで話せば、必ず「人との距離感」ということばが出てくる。

私はその言葉が大嫌いだ。

なぜなら、中学でいじめに遭っていた時、毎日クラスメイトひとり一人との間に距離を感じたからだ。ひとこと二言なら交わせるが、それ以上となると避けられる。一緒に教室移動もしてもらえない。私やいじめのターゲットの子達はいつもいじめられていない人たちからは微妙な距離を取られていた。それを毎日毎日感じ取って過ごしていたから、私は距離感という言葉に極度に嫌悪感を感じてしまうし、他人に距離を取る、という表現や行動が大嫌いなのかもしれない。
苦手になったのなら、話す機会や時間を減らすだけ、嫌いになったら合わないだけ。
それで良くないだろうか?
距離感という言葉は、いじめに遭った私としては、他の人には理解してもらい難い、別のニュアンスがあるのかもしれない。だから私は今後もこの言葉はなるべく使わないようにしたいし、出来れば世の中から消去したいぐらいに思っている。

他人と線を引く、ということ

私は既婚者であり、同性が苦手だ。異性の方がウマが合う。
だから異性と仲良くなりたいと願う。
しかし、やはり線を引かれたり壁を感じてしまうことが多い。
私は別に線も壁も作る気は無いからとても寂しく感じるのだが、私はそもそも自分が結婚している時点で、相手に線を引いているのではないか?と思えてきた。
友情とは関係無いように思えなくもないが、相手(特に異性)によっては妻への気兼ねから食事に行かない、という人もいるだろうし、連絡先も交換しない、という人もいると思う。
そう考えると、法的とはいえ、結婚した=社会通念上は「私は相方が居るので、一定レベル以上の異性との交流は出来かねます。」と言っているようなものだと思えてきた。
いくら私が食事に行きたい、飲みに行って深い話をしたい、友達になりたい、と願ったところで、私が「私は結婚している」という見えないが、しかし重たい線を今まで知らないうちに相手に引いてしまっていたのだと思う。
それでも一緒に食事に行ってくれたり、仲良くしてくれる異性の方は、私が引いてしまった極めて居心地の悪い線なり壁なりと接し、悩みながら私と接してくれているのだと気付いた。そういう方を本当に感謝して大切にしなければいけないと思った。

まとめ

「仲良くなり過ぎるとどうなる?」というテーマがそもそも、仲良くなって何か良くない状況になることを前提にしたテーマだったこと、ファシリテーターが距離感ということばを出したり、参加者に私のように「仲良くなれて何が悪い!」と言う人が居なかったことも、話し合いの方向性を極めてネガティブなものにし、その影響を受けてしまったように思う。次回話し合う時には、
「仲良くなったら、どんなことが出来るようになる?」
のように前向きなテーマで話し直してみたいと思う。

今回の考察は私独特のもので、他の方々のお役には到底立たないと思います。
もし、私もイジメに遭った経験があるから共感できる、とか、私も一緒だ、と思っていただける方がいたらコメントで教えて頂けると嬉しいです。
まとまりのない長文を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

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