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生まれたこの場所で

約10年にわたり勤め上げてきた証券会社を辞めた。
いわゆる進学校から名門大学、有名企業へと進み、成功を収めてきた私は、社会のレールから外れることとなった。
しかし、そこに後悔はなかった。
優秀だが平凡な人間が歩むレールを外れようと、自分自身の力で新たな道を開拓していく自信があったのだ。
新しく始めるベンチャー企業の事業計画書に、ある程度目途を付けた私は、人生二度目の夏休みと称して、発展途上国へのボランティア活動のパッケージに申し込んだ。

ところで、なぜ人生の夏休みに、欧州各国を巡る旅行ではなく、わざわざ海外ボランティアなどに参加することを決めたのかといえば、別に金銭的なゆとりがなかったわけではない。
自分以外の生活、社会というものを覗いてみたかったのだ
私だって、順風満帆な人生を歩んできたわけではない。
幼い頃に母を亡くし、父の手ひとつで育てられた私は、幼い弟たちと働きに出ている父の為に、料理、洗濯をはじめとした家庭内の役割を母に代わって行ってきた。
部活動には属さなかった。学校が終わり塾へ行くまでのその間に、家に戻り、家事を済ませておく必要があった。部活動という青春の代わりに、将来の自分への投資として、勉学にかける時間を優先した。
周りと比べれば、決して裕福な家庭で育ったわけではない私は、自らの努力によって、成功を掴みとってきたという自負があった。
そんな訳で、とにかく時間がなかったのだ。他人のことを鑑みる余裕も、ましてやそこに注ぐためのエネルギーなど、現在までは持ち合わせていなかった。
ようやく私には、他人の生活を覗き込む余裕ができたのだ。

東洋の小さな発展途上国に渡って、一週間が経った。
確かに、日本よりすべての水準が劣っているこの国での生活は、初めて体験する出来事ばかりであった。家がなく、かつての中華系富裕層の墓地に住む人々と触れ合い、スラム街で物乞いをする子どもたちにも出会った。
しかし、それらの経験は、テレビ越しに見る彼らの生活のイメージの範疇を出ず、私にとってはあくまで他人事のままであった。
さらに言えば、各国から届く支援物資、ボランティアからの寄付で生活には事足りており、彼らの仕事といえば、ボランティア体験ツアーで訪れる旅行客を気分よくもてなすことだけであるように思えた。
「彼らには努力が足りないのだ。私だって彼らほどとは言わずとも、贅沢な生活なんて送ってこられなかった。しかし、その中で必死に努力を重ね、今の状況をつかみ取ったのだ。彼らは、貧しい生活から抜け出すために何かをしているだろうか。ただ、本日の夕食が届けられるのを待ち、支援者が楽な仕事を持ってきてくれるのを待ち、各国の宗教団体から届く支援金を待っているだけではないか。」
そんな苛立ちをも感じるようになっていた私は、ある施設での2週間の活動を告げられた。

詳細は知らされぬまま、コーディネーターとともに歩いていった先には、小さな一軒家があった。そこは、シスターが声を掛けて連れてきたホームレスの子どもたちに、給食やシャワーを浴びる機会などを与える、カトリック系の小さな施設として使われていた。そして、入浴や食事、掃除を終えた後、子どもたちには勉強の時間が設けられていた。シスターからの宗教教育を終えた後、私は、彼らに簡単な算数や英語といった、勉強を教えることが役割となった。

その施設に通い始めて三日も経てば、決まってやって来る子どもたちの顔や名前は、自然と覚えていた。
ニキビ面でひときわ背が高い、18歳のアンドリュー。
シスターの話にはうたた寝をしているが、私の青空教室では決まって隣に座ってくれる少女、16歳のエリザベス。
地域の悪ガキたちを連ねている、15歳のルイスとジェフの二人組。
13歳にして、すでに子どもを授かっている、カップルのマイケルとピーター。そしてその赤ん坊のレイ、まだ生まれて半年。
給食の準備をしていると、こっそりとおかずをつまみにやって来る、9歳のスミス。
彼らの中に親の顔を知っているものは誰一人していなかった。

普段その施設にはシスターしかおらず、当初は、異邦人である私を物珍しそうに観察していた彼らであったが、私が彼らの名前や年齢を覚えたその頃には、我々の距離もうんと近づいていた。

施設の中でゆったりと流れる時間の中で、私たちは多くの話をした。
アンドリューが物乞いをするときの常套句。自らの身体で稼いだお金で、妹たちの食費を賄っているエリザベスの苦悩。どこからか盗んできたギターの音色で、赤ん坊をあやすマイケル。無邪気な笑顔で、教師になるという夢をかたるスミス。
そして彼らは、私から教わる簡単な足し算に、I like you.という外国語に、私が生まれ育った日本という国の話に、熱心に耳を傾けた。新しい知識を手に入れた彼らの誇らしい顔は、かつての私の弟たちと何の変りもなかった。

燦燦と輝く太陽の下、いつものように身の上話をしていた私は、自身の内に、ある感情が芽生えていることに気が付いた。
恥ずかしい
私が彼らに自信をもって伝えている知識は、学校と塾で習ったのだ。
そして高校、大学と学び続けるための費用は父に賄ってもらった。
料理をするための食材があり、毎日帰る家があり、毎晩眠るベッドがあった。
これらすべてを失った15歳の私は、果たして、現在の私へと繋がるチケットを持ち得ていただろうか。

彼らと同じ時間を過ごし、彼らのことを知り、そしてようやく、彼らとの共通点と相違点が足並みを揃えて私の中へ入ってきたことを感じた。
それと同時に、私は猛烈な羞恥心に襲われた。
現在の私は自分自身の努力によって形成されたものであると疑わなかった傲慢さに、彼らに何かを与えているということによって満たされていた自尊心に。
彼らは奉仕を受ける側であり、私は奉仕をする側であるという違いは、我々の距離を永遠に隔てていくもののように感じられた。

そして14日目。
彼ら一人一人への別れの言葉を用意し、給食を作りながら、いつものように彼らの到着を待った。
いつもよりも30分ほど遅れてやってきたのは、赤ん坊のレイを抱えたピーターだった。
「あら、マイケルはどうしたの?今日はあなたたちが一番乗りよ。」
汗を拭きながら尋ねたシスターに対して、ピーターはレイを見ながらつぶやいた。
「今日からは、私たち二人だけよ。」
そして静かに続けた。
「昨日、マイケルが言ってたわ。大通りの向かいの銀行を襲うって。アンドリューとエリザベスに誘われたんですって。ルイスとジェフ、スミスも一緒にいたわ。」
「結局、どれだけ待っても帰ってこなかった。」
「さっき、ルイスとジェフの子分たちが言ってたわ。彼らは撃たれて死んだみたいよ。他のみんなは牢屋の中だって。」
ただ、ピーターを見つめる私の横で、シスターは静かに言った。

「そう。そしたら、また新しい友達を探しに行かないとね。」

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