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優先順位

「ねえ、あんた。」
「あんたよ。聞こえているんでしょ?この間からずっと、そこに立っているけど、誰なのよ。」
郊外にある総合病院。その緩和ケア病棟の一室。
病室の片隅で、まっすぐに背筋を伸ばして立っているスーツ姿の男に、女は話しかけた。

「あ、見えていらっしゃたんですね。」
「初めまして。私、あなたの担当になりました死神でございます。どうぞ最期のその時まで宜しくお願い致します。」
「死神なの?なんかイメージしてたのと違うわね。てっきりこの世に未練を残した幽霊かと思っていたわよ。」
「皆さん、よくおっしゃいます。」
「まあ、私はもう長くないっていうのは知っているけど、あなたは何しに来たの?」
「私が死ぬまで、ずっとそこで突っ立っているつもり?」
「基本的にそうですね。あなたが此岸から彼岸へと渡って行かれるのを見届けるのが私の仕事になります。特に、なにかご迷惑をおかけすることはございませんので、お気になさらず。」
「お気になさらずって言われてもねえ…」

「ねえ、死ぬときってどんな感じなの?」
「それは、お答えできません。」
「何よそれ、教えてくれてもいいじゃない。」
「規則ですので。悪しからず。」
「じゃあさ、結局私はいつ死ぬのよ。先生や家族ははっきりとした寿命を教えてくれないのよ。」
「それもお答えできません。」
「なんなのよ。ほんとに使えないわね。」
「まあいいわ。退屈しのぎに話ぐらい付き合ってよね。」

「私ね、まだまだしたいことたくさんあるのよ。だってまだ、26よ。人生これからじゃない。」
「死ぬまでにポーランドに生きたかったの。私フランクルが好きでさ、彼がどんな景色を見てきたのか、アウシュビッツを見に行きたかった。」
「あと、東北にも行ったことがないの。車で東北を縦断したかった。銀山温泉に、天童。1週間くらい時間取ってゆっくり回りたかったな。」
「あとは、バンジージャンプ。スカイダイビングもしてみたかったな。それとアメリカにも行きたかった。大谷翔平の試合を一回でもいいから生で見てみたいのよ。本場のディズニーにも行って、それからNYにも行ってみたかった。」
「それと…やっぱり、ウエディングドレスは着てみたかったな。大切な人と幸せな家庭を築いて、赤ちゃんを授かって。当たり前だけど、普通の女の子の幸せを経験したかった。」
「でも、もうそんな体力も時間もない。やりたいこといっぱい残したまま、この病室で、死を待つしかできないのね。」

「あなたの寿命はあと5日ですよ。」
「え。なによ、さっき寿命は教えないっていったじゃ…」
「残りの5日でしたいことは何ですか?」

「そんな、急に言われたって…。」
「先ほどおっしゃっていたことは、何一つ出来そうにありませんけど、この5日間で別にしたいことはございませんか。」
しばらく考え込んだのち、女は静かに口を開いた。
「お世話になった人たちに会いたい。今まで私に関わってくれてありがとうって、大好きだよって、直接会って伝えなくちゃ。」
「あとは、少しでいいから私の生きた証を残したいな。私の人生を文章にして、きちんと本に残してほしい。間に合うか分からないけど、明日の朝から書き始めるわ。」
「それと、どうせあと5日しか生きられないのなら、ハンバーガーとラーメンも食べちゃうわ。」
「残り5日間でこれだけできれば、まあ及第点よね。」

「あっ!」
「何よ、急に大きな声出して。私病人なんだから、気を使ってよね。」
「あなたの寿命、残り5週間でした…。つまり、1か月ちょっとですね。」
「は?ふざけないでよ。私の今の覚悟は何だったのよ。」
「本当に申し訳ございません。私も疲れが…。」
「ところで、先ほどの話に戻りますけれど、あと1か月で何をされますか?」
「そうねえ、さっき言ったことはやるとして、やっぱり本はきちんと完成させたいわね。1か月あるなら何とかなりそうだし。」
「あとは、ちょっと遠くにいる友達にも最後に会っておくわ。小旅行もかねて、どこかの旅館で温泉に入りたいわね。」
「まあ、でもそれくらいよ。それだけでも全部できたら十分よ。」
「じゃあ、あと半年命がもつなら何をされますか?」
「はあ?あんたさっきから何なのよ。私で遊んでるの?」
「…」

「皆さん、自分ががもうすぐ亡くなるってわかると、あれもしたかった、これもしたかったって、おっしゃるんです。」
「勘違いしているんですよ。自分が本当にしなければいけないことと、ただの願望を。」
「あなたも最初、たくさんのやり残したことをおっしゃっていました。だけど、その中であなたが本当にしたいことはいくつありましたか?」
「うん…。そうね。」
「私も、やり残したことの優先順位をつけられていなかったわね。」

「私は、あなたがいつ亡くなるのか。本当の事なんて知りません。1週間後かもしれないし、1年後かもしれない。だけど、今のままですと、最期に悔いを残すことになりますよ。」
「そうね。あなたの言う通りかもしれないわ。」
「明日から、本当にしなくちゃいけないことから、手を付けていかなくちゃね。」
「ありがとう、死神さん。今日は疲れちゃったから、もう寝るわね。」
「おやすみなさい。」
「はい、いい夢を。」


ピピピ…ピピピ…ピピピ…
午前1時、寝静まった緩和病棟に機械的なアラーム音が鳴り響いた。
「血圧、心拍低下しています!サチュレーション49%!反応なし!」
「胸骨圧迫始めます。バッグバルブマスクとAED準備して!」
「急いで!先生呼んできて!」

慌ただしく彼女の周りで動く看護師たちを横目に、スーツの男は電話を手に取った。
「あ、こんばんは。●●です。私の担当している方、そろそろ書類の準備をお願いしますね。朝にはそちらに戻れそうです。では後ほど。」

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