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排他的心象風景

「さようなら。君がいつか幸せになることを願っているよ。
君のことは今までと同じように愛しているけれど…。
でも、君を幸せにできるのは僕じゃないみたいだから。」

「私だって、まったく同じことを思っているわ。
私たちは世界中の誰よりも似た者同士だったと思う。
けれど、それじゃダメだったみたいね。
お互い幸せになりましょう…。」

「「さようなら。」」


 珍しく都内に雪が降った年末、煌びやかなネオンの中を、孤独な二人は同じ方向を向いて歩いていた。

「それにしても、長谷川の今年の活躍は素晴らしかったな。すっかりこの営業部の大黒柱になってくれた。」
「ほんとにそうだよな。まだ、四年目だっていうのに、たいしたもんだよ。」
 忘年会シーズンで賑わう居酒屋の一席で、ありふれた光景の中に男はいた。
唯一の同期である長谷川の営業成績を称え、盛り上がっている中で、社会人四年目になり、月々のノルマを辛うじて達成することに手一杯の男は、いつも以上に心地が悪かった。
「お手洗いに行ってきます。」
誰一人、気にも留めないであろう小声でつぶやき、男は店先の喫煙所へと逃避した。
ピースライトに火をつける。
細い円筒から、体内へと伝う煙は、男にとっては酸素よりも価値のあるものに思われた。

「すいません。火貸してもらえませんか?」
煙の拡散とともに意識も朧気になり、自分だけの世界へ逃れていた男は、唐突に現実の世界へ引き戻された。
反射的に声の方へと顔を向けると、自分とそれほど年の変わらないと思われる女がこちらを見ていた。
「あ、どうぞ。」
男はぶっきらぼうに答えながらも、女のたばこに火をつけてやった。
こんなに若い女の人が煙草なんて、珍しいな…。
ぼんやりとそんなことを思いながら、自分の煙草へと意識を戻すのと同時に、親しみのある匂いが男の嗅覚を刺激した。
「ピース。」
気付けば、口に出していた。しまったと思いながら、その後に続く言葉を探していると、女ははにかみながら返事をくれた。
「おんなじの吸ってますよね。私は、さっき火をもらう時に気付いてましたけど。」
女の笑顔に少しばかりの安堵を覚えたが、それ以上の羞恥心に耐えられなかった男は、すぐに煙草の火を消した。
「それじゃ、失礼します。」
軽く会釈をし、その場を立ち去ろうとしたが、もう二度と会うことはないだろうという安心感が、男にちっぽけな勇気を与えた。
「これ、ライターどうぞ。僕はもう一本持っているので使って下さい。」
それだけを言い終えると、女にライターを押し付け、男は足早に喫煙所を後にした。

「私も、行きたかったんですけど、明日朝が早いので。次こそは参加させてもらいます。楽しんでください。」
二次会への参加を半ば強引に拒否した女は、駅へ向かって歩き出した。
「忘年会って何が楽しいの。これ以上お金払ってまで、接待なんかできないわよ。」
ぶつぶつと文句を言いながら、雪のちらつくネオン街を進む女の足を、交差点の赤信号が止めた。
顔を上げ、ぼんやりとあたりを見渡していると、いくらかの通行人の向こうに、見覚えのある横顔があった。
数時間前、一分にも満たない時間を共有しただけの男の姿が、彼女の記憶には鮮明に刻まれていた。
少し戸惑ったが、気が付けば、男に近づき声を掛けていた。
「あの、さっき居酒屋で会いましたよね?煙草の火貸してくれた…。」
男は驚いた表情で女を見たが、意外にもすんなりと状況を理解したようであった。
「あ、ピースライトの。」
「そうです!その節はありがとうございました。
私、あの後忘年会の二次会から逃げてきちゃったんですけど、もしかしてお兄さんも?」
「はい、お恥ずかしながら…。あなたも、あそこで忘年会してたんですね。
 まさか、またお会いするとは思いませんでした。」
普段は他人との交流など積極的に回避する女であったが、運命というにはほど遠い偶然が女のちっぽけな勇気を後押しした。
「もしよかったらですけど、二人で二次会しません?ライターのお返しに奢りますんで。」
幾秒かの沈黙の後、男は頷いた。
「いいですね。行きましょうか。」
孤独に包まれ、同じ方向へと歩いていた男女は、こうしてちっぽけな勇気の交換に成功した。


二人だけの二次会を終えた後、連絡先を交換した男女は、お互いの時間を照らし合わせては、週に一度は会うようになった。
厚手のコートがなくとも、夜風の冷たさが気にならなくなった頃、チャイニーズレストランでの夕食を終えた二人は、東京湾を眺めながらコンクリートの階段に腰かけていた。
水面に反射する光を眺めながら、男はおもむろに口を開いた。
「僕はこれからも君と一緒にいたいと思ってる。
なぜだか分からないけど、君と僕の周りには同じ空気が流れている気がするんだ。
君といるときだけは、僕は息苦しさを感じずに呼吸ができる。
でも、君のことが真剣に好きだからこそ、返事を聞く前にどうしても伝えておかなければいけないことがあるんだ。」
「何よ。随分と前置きの長い告白ね。」
からかいながら返事をする女を横目に、男は同じ口調で続けた。

「僕は人を殺したんだ。」

女は何も言わず、明るい海をただ見つめていた。
「今まで、あえて家族の話を避けてきたけど、僕には家族がいないんだ。
 小学生の頃、家族で旅行に行っていた時に、僕は車の助手席でけいれんを起こして気を失った。意識が戻った時には、僕の家族はこの世にいなかった。僕のせいでお父さんはハンドル操作を誤ったらしい。お父さんとお母さんと妹を殺して、僕だけが生き残ったんだ。
 そのあとは、施設で育った。大事な息子と娘を殺された祖父母たちは、僕のことを引き取ることは拒否したらしい。
 結局、高校を卒業するまでは施設で生活して、大学に入る時に一人での生活を始めた。だから、僕は家族ってものを知らない。君と付き合ったその先のことも考えるけど、大切な人たちを殺した僕が、大切な君と一緒にいていいのか分からないんだ。」

 堰を切ったように話し続けた男の背中に、そっと手を当て、女は話し始めた。
「私ね。あなたに会うために生まれてきたと思うのよ。」
「初めてあなたと会った日のこと覚えてる?私、あの時ライター持ってたのよ。」
「え。」
男の困惑した表情を気にも留めず、女は続けた。
「あの夜、喫煙所であなたを見た時は驚いたわ。はじめて私と同じ空気をまとっている人を見たの。もう二度と会わないだろうと思って話しかけてみたのに、帰り道であなたの姿を見たときには、運命だと思った。」
「どういうこと?どうして君が僕なんかと…」

「あなたと同じだからよ。
私も一時期施設で過ごしたわ。そのあとは今のパパとママのところで育った。
施設に移る前にね、実の兄からレイプされていたのよ。それをお母さんに相談したら、お母さんすごい剣幕で兄に詰め寄ったの。逆上して刺されたお母さんは死んだわ。兄は少年院に行って、お父さんが今何をしているのかは知らない。
兄はね、学校でひどいいじめに遭っていたみたい。自分のことは助けてくれないのに、私のことだけって。
私がお母さんに話さなきゃ、こんなことにはならなかったの。私がお母さんを殺して、家族を壊したのよ。」
「それは君のせいじゃない。君は何も悪くない。被害者じゃないか。」
「それは、あなただって同じでしょ。別にあなたのせいで家族が亡くなったんじゃないわ。不幸な事故よ。
でも、あなただって同じでしょ?
誰かに違うって言われても、自分ではそうとしか思えないの。」
「私、今までね、この世界の中を生きている気がしなかった。
パパとママはもったいないぐらいに私に優しくしてくれたし、あの人たちのことは大好きよ。でも、あの日からずっと、私一人だけが違う世界の中を生きているの。パパとママがくれる愛情も私の世界には届かなかった。ずっと一人で、誰にも気づかれずに暗闇の中を生きてきた。だけどあの夜、はじめて私と同じ世界を生きているあなたに出会った。初めて一人じゃないんだって思えたのよ。」
「これからもずっと一緒にいましょう。私を一人にしないで。私もあなたを決して一人にはしないから。」
もう、言葉はいらなかった。
美しい夜景の広がる世界の中で、孤立して存在していた小さな二つの空間は、初めて合一化し、一つの小宇宙を形成した。


彼女に、僕のすべてを告白した夜。僕は彼女との別れを決意していた。
だけど彼女は言った。「僕に会うために生まれてきた。」と。
家族を失って以来、初めて僕の存在に気付いてくれる人に出会った。

彼の告白を聞いた夜。彼は私の運命の人だという希望が、確信に変わった。
私と同じものを抱えた誰かと二人で孤独を分け合えるそんな日々が、私がずっと夢見ていた日々がこれから始まる。その思いだけで、今までの人生がすべて報われた。

初めて彼に抱かれた夜。私は、恐ろしくてたまらなかった。
男という私を脅かす存在に身をゆだねる恐怖も、そんな恐れが彼を傷つけることへの不安も、それらすべてが私を再び闇へと引きずり込んでいくように感じた。
しかし、それは杞憂だった。
私たちがある小宇宙では、性別などは一切の意味を持たなかった。ただ自分と同じ生き物と身と心を寄せ合うという安心感が私を包み込むだけだった。

彼女を初めて抱いた日、僕は怖かった。
儚くも存在している彼女の存在は、いとも簡単に崩れさってしまうように思えた。
彼女が恐怖と戦っていることは、五感の全てをもって感じていた。しかし、それでも彼女は僕に何もかもを委ねてくれた。僕も勝たなくてはならなかった。彼女を壊してしまうことへの恐怖に。
彼女を抱いた腕の中で、はっきりと愛の輪郭を感じた。安堵に満ちた彼女の存在を感じた時、僕の恐れなど姿を現す余地もなかった。

二人でベッドに横たわりながら、施設での生活を彼女と振り返った。
刑務所の中に入れられたのだと勘違いした、一時保護所での生活。これから自分の人生はどのように崩壊していくのだろうと、涙を流しながら過ごした一か月。
家に帰っていく他の子どもたちを見て、その後彼らを待ち受ける運命など知らずに、ただ羨ましく思ったこと。
施設に移動することが決まった頃には、保護所の先生との別れが寂しくなっていたこと。
初めて暮らし始めた施設での生活では、先生から小さな子供まで、はっきりとした序列があったこと。自分もなめられないようにと懸命に戦ったこと。
深夜に友人と共謀して、施設を抜け出してこっぴどく怒られたこと。
今まで、他人に見せるわけにはいかなかった自身の青春の日々を初めて誰かと共有することが出来た。

彼と施設での思い出話で盛り上がった後は、里親になってくれたパパとママとの生活を話した。
施設や、一時保護所とは違い、新しい誰かが自分の生活に入り込んでくることがないという安心感があったこと。門限や消灯時間はなく、自由に携帯で友人とやり取りができたこと。
彼は、「いいな。羨ましいな。」と相槌を打ちながら、彼の経験しえなかった話に耳を傾けてくれた。
だけど彼は知っていた、どれだけ豊かな生活を送れるようになろうとも、心の奥底に住み着く孤独からは決して逃れられないことも。自分が殺人犯だという罪の意識は、いつ何時も私の首を狙っていたことも。

日が暮れようとも、気温は30度を上回るような金曜日の夜には、エアコンを20度に設定して、二人で身を寄せ合ってホラー映画を見た。
心霊現象にはめっぽう弱い私に対して、彼はあまり表情を変えずに画面を眺めていた。
一本の作品を見終わると、彼は小さくつぶやいた。
「僕だったら、死んだって幽霊になんかならないけどな。」
しまったという表情を一瞬見せた後、彼は冷蔵庫へとビールを取りに向かった。

ホラー映画を見た後、口を滑らせた僕は、話題を変えようとビールを二缶持って、彼女のいるソファーへと戻った。
僕が戻るとすぐに、彼女は口を開いた。
「ねえ、私と過ごすようになって、幸せ?」
「当たり前だよ。君は違うの?」
「今までの人生で一番幸せよ。じゃあ、もし今交通事故に遭って、あなたは誰にも責められることなく死ねるとたら、あなたは幽霊になりたい?」
「…。」
なにも答えられない僕の感情を見透かしたように彼女は続けた。
「私ね、当時の自分からしたら想像もできないくらいの幸せの中に、今、生きていると思ってる。だけどね、もし誰かが私の命を一方的に奪ってくれるならって、今でも思うのよ。
どれだけ幸せになっても、一生この感情からは逃れられないのかしらね。」
幸福な毎日の中で感じていた小さな違和感を、彼女は完成された日本語で、僕へと提示した。
「本当に、僕たちはなんでもわかっちゃうね。」
お互いの体の奥底に生じた小さくも重たい感情を、二人の間で重ね合わせた。
そうして一つになった感情と、私たちを合わせた三つの存在を包み込むように、ブランケットにくるまれ身を寄せ合った。

同僚の結婚式から帰宅した彼女は、珍しく酔っている様子だった。
ドレスを脱ぎ、下着姿のまま彼女は話し始めた。
「ねえ、私たちは結婚するのかしら。二次会でいろんな人から言われたわ。まだ結婚しないの?子どもは良いわよ。年取る前に早く産んじゃいなさいって。」
「でも、子どもなんか、私たちがどうやって育てるのよ。家族だって知らない。頼るところだってない。ましてや、自分の人生すら誰かが終わらせてくれることを望んでいる私たちが。」
僕はまた、何も言えなかった。彼女と同じことを思っていたから。
「そうじゃない。僕たちなら新しい命を授かって幸せな家庭を気付いていける。」と彼女の不安を吹き飛ばしことも。
「君が苦しくたって、僕が助けていくから心配しないで。」と彼女を励ますことも。
ただ彼女と同じ不安を抱えて生きていくしかない僕には、何もできなかった。

最近は、彼と昔話をすることも無くなった。将来の話をすることも避けるようになった。
私たちは気付いていた。
共感しあうだけでは、私たちは決して救われないということに。
彼が苦悩を打ち明けてくれても、
「そうだね。私も同じ気持ちを抱えているよ。」
と、彼の気持ちに共感することしかできない。
彼の苦しさを受け止めて、それでも大丈夫と彼の背中を押すことは出来ない。
私が彼に感情をぶつけるときも、彼は何も言わずにただ私の事を見つめている。
彼は私の考えていることが手に取るように分かるから、不用意な言葉で私を傷つけることを恐れている。
お互いの苦悩に共感し、傷を舐め合っているだけで、私たちは大切なあなたを暗闇から救い出す方法を知らない。
同じ苦しみの中で身を寄せ合っているだけで、そこから抜け出す術を何も知らない。
私たちは気付いていた。
二人の将来にこれ以上の未来はないということに。


冬のある晴れた日、男は女をランチへと誘った。
無言のまま昼食を終え、食後のホットコーヒーがテーブルに置かれると、男が口を開いた。
「僕は君のことを誰よりも理解していると思う。」
「そうね。私も、あなたよりもあなたのことを知っていると思うわ。」
「だけど、僕は君に共感はできても、君の苦しさを受容して、君を光へと導いていくことは出来ない。」
「お互い様ね。」

しばらくの沈黙の後、男は女の目をまっすぐに見た。

「さようなら。君がいつか幸せになることを願っているよ。
君のことは今までと同じように愛しているけれど…。
でも、君を幸せにできるのは僕じゃないみたいだから。」

「私だって、まったく同じことを思っているわ。
私たちは世界中の誰よりも似た者同士だったと思う。
けれど、それじゃダメだったみたいね。
お互い幸せになりましょう…。」

「「さようなら。」」

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