借金5000万円男の憂鬱 ~高校生時高校


初回記事 (小学生時代)
前回記事 (中学生時代)

コマツです。
仕事でいろいろあったり、精神的に病んで休職したり、嫁さんと別居になったりと様々あり、前回投稿から1年以上経っての投稿となってしまいました。
これらの件は追々触れるのか触れないのか、その時の気分次第で。

前回は、中学生時代のコマツをご紹介いたしました。
中学時代も、ムカつく先輩はいたけど、それ以外は何の悩みもなく、毎日楽しく過ごしてました。

中学卒業後は、県西部地域では偏差値でいうと2番目に位置するF高校に進学することに。
1番偏差値の高いT高校へも行けたが、そこはサッカー部があまり熱心ではなかった。

一方でF高校サッカー部は、かつて県選抜の監督も務めたこともある名将が顧問をしていたため、勉強も部活もと考えたときに、F高校がいいだろうと思い、F高校に決めた。

今振り返ると、高校選択はミスだったと後悔している。



僕の通っていたF高校は居住地の隣の市にある。
F高校よりも偏差値的には高いT高校があったが、ここも市外。
T高校は駅が近かったため、市外の学生でも電車通学しやすく、我が中学からも、学年トップ10人くらいはT高へ進学していた。

一方のF高校は山の上にあり、鉄道の駅は近くにない。
バスで通うことは可能だが、自宅からバス停まで徒歩で20分程度かかり、その後バスに揺られF高校前のバス停まで40-50分と、合計で1時間以上かかる。
遅刻しないためには、AM7:00前のバスに乗らないとならない。

このように市外からは非常に通いづらい高校であったため、我が中学からF高校に進学したのは僕含めて2人だった。

市内にも公立高校はいくつかあったが偏差値が低く、いい大学への進学あまり見込めなかった。
高い学費を払って私立の高校を選ぶ生徒もいた。
その私立高校は僕も滑り止めで受かっていたが、そこの進学コースは、ほとんど青春を捨てて勉強三昧という生活のため、死んでも行きたくないと思っていた。


前述したように非常に通いづらいF高校。
どうやって通学するのがベストかというと、自転車だ。
アップダウンが激しく、非常にしんどい。
普通の人は漕いで片道40数分という距離。朝に弱い僕は、いつも遅刻ギリギリの時間に家を出発し、猛ダッシュで自転車を漕いでいたため、30分少々で到着していた。
冬でも汗だくだった。
この往復1時間以上の自転車通学を3年間続けた。


前述の通り、我が中学からF高校へ進学したのは僕含めてたったの2人。
もう一人は女子で、1年時は別のクラスになった。まぁその子とは中学でも1度も話したことはなかったため、同じクラスになったとしても、恐らく絡まなかったと思う。

だから部活が始まるまで一人ぼっちだった。
昼飯は一人で食べてたし、休み時間も誰かと話すでもなく携帯をいじったり、尿意もないのにトイレにいったりしていた。

小中学校時代は友達も多く、休み時間になれば自然と友人が集まってくるという環境だったため、この孤独期間はけっこうきつかった。

入学から2週間弱経ち、部活動の仮入部が始まった。
もちろん僕はサッカー部に入部した。
1年生なので、最初のうちは走り込みメインで、終わってもメイングランドの隅のほうでミニゲームをやる程度。

そんな練習内容だったが、一人ぼっちだった僕は友人が出来たことが何よりも嬉しかった。
やっと休み時間や昼ご飯時に喋る友達が出来た。


友達が出来たとはいえ、サッカー部の枠の中でしかない。
もっと交友関係を広げようと思うと、サッカー部の同期のさらにその友達との繋がりを持つ必要があった。
手っ取り早く友達を作るには、ちょっとしたお調子者を演じたり、思春期の男子なのでエロ関係の話をしまくったりするのが効果的だった。

しかしその結果、 ”イジられキャラ” になってしまった。
さらに追い打ちをかけるように、サッカー部の同期の中でも影響力の大きいH氏から、
「お前、ゲイみてーな顔してんな!」
と唐突に言われ、それ以来 ”ゲイキャラ” が定着した。

男女交じって会話していても男友達が、
「こいつゲイだから笑」
「こいつ女に興味ないから笑」
と言って笑いをとるようになり、中には冗談と受け取らない女子たちもいて、
「あ、ふーん(察し)」
みたいなリアクションをされた。

余談だが、成人式で久々に会った高校時代の同級生女子から、
「イケメンなのにゲイって噂あって、女子何人かショック受けてたよ笑」
と言われ、マジで発端となったH氏に殺意を覚えた。

小・中学時代は勉強もスポーツも出来る部類であり、自分で言うのは恐縮だが容姿も悪くなかったため、イジられるようなキャラではなかったが、高校では所謂三枚目の立ち回りをすることになった。
これがまぁまぁストレスだった。


部活のほうはというと、それなりにサッカーの強い高校であったため、部活動はキツく、周りもうまいやつらがたくさんいた。
ちなみに、地域で一番偏差値の高いT高校を捨ててF高校にきたのは、高校サッカー界ではけっこう有名な監督がいたからであるが、僕が入学する前の年度にまさかの別高校へ異動となった。
代わりにやってきたのは、一応強豪校でコーチを務めた経験があるというM先生(クソデブ)。
この先生とは心底合わなかった。

初めての監督経験のため本人も手探りだったのかもしれないが、思い付きで色んな練習を考えてはやらせるタイプ。
どういうサッカーをやらせたいのか示さずに、とりあえず目新しい練習をどんどん取り入れるので、技術の定着もしなかった。

僕は繋いで崩すスタイルが好きだったが、監督のM先生は、恐らくではあるが、堅守速攻型が好み。
とにかく時間をかけずに前線の選手に放り込み、全体をビルドアップさせるかたちが好きで、そういう選手を起用していた。

ちなみに僕は、足元の技術が長けていると言われており、卒業アルバムにもサッカー部の友達から「お前のテクはNo.1だった!」と書かれるほどだった。
ボランチやトップ下をやることが多かったが、自陣深いとこでボールを奪っても前に蹴りだすことはせず、コースが無ければ相手を1人2人かわして、あくまでもグラウンダーのパスにこだわる、そんなスタイルを貫いていた。
それが気に食わなかったのだろう。
「球離れが悪い」とか、「10~15秒以内にシュートまでもってけ。そのために何をすべきか考えろ」とか散々言われた。
Aチームに行ったり、Bチームに行ったりを繰り返させられていた。

同じように足元の技術が優れていて、僕のようにパスサッカーをやりたいと思っていた同級生がいたが、彼は高2の夏前にサッカー部を辞めてしまった。
ひとつはM先生と合わないこと、もうひとつはサッカー部のやつらと合わないとのことだった。
たしかにサッカー部の同級生には嫌なやつらが4-5人ほどいた。中体連で県準優勝している学校からきているので、間違いなくサッカーはうまいが、性格が終わってた。僕たち同期は15人いて、2年になると部室を2部屋もらえた。普通に考えて7人と8人に別れて使うが、その嫌な奴ら5人が一部屋、残り10人ほどがもうひとつの部屋という部屋割りが、ナチュラルに出来上がっていた。
そいつらの何が嫌だったかというと、試合中ミスをした味方に対する暴言、雑ないじり(お前一発ギャグやれよ、とか)、宿題やらせるとかいろいろ。
前述した、監督と合わない、同期と合わないという理由で退部してしまったやつのほかにもう一人、2年になった直後くらいに退部したやつがいて、そいつは顧問に「同期からいじめられている」と残して去っていった。
まぁあのいじりは、慣れてない者からするといじめと捉えても仕方がない。
それを聞いた顧問は激怒し、「お前ら明日までに坊主にしてこい」と。
普通にまじめに部活をしていた我々はとんだとばっちりである。
いっそ僕もやめたろかなと思ったが、まだ1年ちょいしかやってないのに辞めるのは流石によくないと思い、断腸の思いで坊主にした。


いろいろあったが、監督や同期と合わないと感じながらもサッカーは続けた。
高3にになったばかりのある日、とある大会で格下の高校に敗れてしまった。
それにブチ切れたM先生は「坊主にしろ」と言い始めた。
それで僕は一気にサッカー熱が冷めたというか、これまで溜まってた鬱憤があふれてしまった。

指導方針が合わない・切れたらすぐ坊主にさせる監督、一緒にサッカーやってても楽しくない一部同期・・・
もうこのままこの部活にいても時間の無駄だな、と思い、その試合の翌日、顧問に退部の意思を伝えにいこうと考えた。

同じタイミングで、退部の意思を固めたやつがいた。
理系の同じクラスであり、一番仲の良かったK氏だった。彼はサッカー部イチの秀才で、のちに名古屋大学へ進学することとなる。
彼もずっと監督への不満をよく口にしていた。
別に示し合わせたわけでもないのに、顧問のいる職員室へいくタイミングがたまたま被り、鉢合わせてしまった。
「あれ?お前も監督のとこいくの?」と聞いたところ、部活を辞めることを伝えにいくのだと。そして二人で一緒に、顧問へ退部すると伝えた。
もう2-3か月後には夏のインターハイが始まり、それが終わればキレイに引退という時期だったが、それでもあの部活にいる時間が無駄だと思った。

そして、非常に中途半端というか、勿体ない時期ではあるが、高3の5月ごろにサッカー部を辞めた。

最初の1-2週間は晴れ晴れとした気持ちになったのだが、やっぱりその後強い後悔の念が襲ってきた。
サッカーの試合をしている夢を何度も見るほどだった。とくに体育祭の部活動対抗リレーを、外から見ていることしか出来なかったときは、心底後悔した。

ちなみにサッカー部はというと、インターハイ県予選の1回戦で敗退した。初戦からそこそこ強い高校と当たったとはいえ、勝てない相手ではない。
正直いって、そんなもんだろうなと納得した。
チームワークのかけらも感じられなかったし、あのチームなら2-3回戦止まりがええとこやろ、と思っていた。

さて、5月に部活を辞めた僕はというと、なんと11月までフルで遊びつくしてしまう。受験生にも関わらず、である。
部活がなくなり時間が生まれ、小中学校時代の地元の友人と遊んだり、家で動画を見たりゲームをしたりと、学校にいる時間以外勉強は全くといっていいほどしなかった。

余談だが、その時期にモーニング娘。にハマった。きっかけは「うたばん」にモーニング娘。が出演していた回をたまたま見て、高橋愛ちゃんに一目惚れしたことだ。
なっちやゴマキがいた、所謂黄金世代はとうの昔で、「まだモーニング娘。活動してたんだ」くらいの感じで見てたところ「誰だこの可愛い子は!?」となり、そこからYouTubeでモーニング娘。の動画を見まくった。
大学生になってからガチオタになるのだが、その話はまた別の機会に。


さて、部活を辞めてから11月まで遊びまくった結果、模試で大変な成績をとることになる。
高校でもテストの成績は、上位ではないがバカなほうでは全くなかったので、県内の国立大(一応準難関大とは言われていたが)くらいは余裕だろうと思っていたが、D判定をとってしまう。

高3の11月にこの成績はヤバいと、さすがに焦った。
その状態から何をやったかというと、とにかくセンター試験対策をしないとと思い、過去問を解きまくった。
「2次試験対策もクソもない、センターでこけたら終了だ」そう思い、とにかく1月のセンター試験まではセンター過去問しかやらなかった。

その結果、地元国立大は余裕で受かるだろう、という点数をとることが出来た。先生からは、もうひとつ上のレベルの大学(横国とか広大とか)も視野に入れられるぞと言われたが、県内から出るつもりはあまりなかったし、もうこれ以上勉強するのも面倒だったので、安牌の地元国立大を受けた。
二次試験対策は1か月もとれなかったが、センター対策のおかげか学力レベルが上がっており、二次試験も難なく解くことが出来た。無事に某国立大への進学が決定した。
ちなみに滑り止めで受けた中央大と法政大にも合格しており、正直東京へ行ってみたい気持ちもあったので、中央への進学も考えたが、学費が国立の3倍くらいするし、都内での生活費も高いため断念。
両親はどちらでもいいと言っていたが、4つ上の非常に優秀な姉が、実は都内の某有名私立大学に通っていたため、さすがに姉弟揃って都内私立はヤバいやろ…と思い、国立を選んだ。


非常に長くなってしまったが、上記のとおり、高校時代は正直あまりいい思い出・印象はない。
サッカーのためにバカみたいに遠く、通いづらい高校を選んだのに結局サッカーを中途半端なかたちで辞め、プライベートで遊んだのも、高校の友達よりも小中学校時代の友人のほうが多かった。
地域トップ偏差値高のT高校に行っていれば、全く違う未来があったんだろうなと、そしてそれはいい方向に違う未来だった可能性が高いと思っている。

今思えばこの高校選択が、重要な二択を外す人生の一歩だったような気がする。


次回へ続く



かもしれません。

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