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【日曜美術館(1)】陶の山 辻村史朗

奈良県の山奥で茶碗を作り続ける陶芸家・辻村史朗に焦点を当てた放送回で、なんとなく録画して観てみたら凄く面白かったので、これから日曜美術館シリーズも定期更新していきたい。

まず、辻村氏の面白いところは、自分の作った茶碗を山中の至る所に野晒しで置いていることだ。物によっては数十年前の茶碗もあり、土に埋もれたり表面に苔が生えたりしているが、驚くべきことに本人はどこに何を置いたのか正確に記憶している。

その行動の理由は明らかにされなかったが、当然ながら彼が茶碗を売ることに執着していないことは分かる。また、撮影時には年間4千個もの志野茶碗を作っていたので、単に屋内に置き場所がないから外に置いただけくらいの理由かもしれない。いずれにせよ、一つひとつを嬉しそうに掘り出して語る辻村氏を見ると、彼にとってはこれが自身の茶碗に対する愛情表現の一つなんだと思う。

まぁ、そうだとしても、まず「土で作った茶碗を土に還す」という発想自体が面白いが。笑

閑話休題。前述の通り、撮影時には年間4千個もの志野茶碗を作っていたが、いずれの出来栄えにも満足できず早数年経過しているとのことだった。

これほどまで集中的に志野茶碗を作るきっかけとなったのは、志野茶碗の名作、国宝「卯花墻(うのはながき)」に感銘を受けたからだという。

この「卯花墻」、作中でも紹介されていたので見たが、なんとまぁ凄いこと。僕は陶芸は素人だが、一目見た瞬間に目が離せなくなってしまった。ただ困ったことに、どこに強烈なインパクトを感じたのかという説明が甚だ難しい。「何となく嫌な感じがする」と言った時の「何となく」が一番近い気がするが、辻村氏も「言葉にすることはできない」と言われていたので、そんなに間違っていないはずだ。

大体、陶芸って結構、偶然に左右されるところが大きい。辻村氏ほどの技術を身に着けても、結局納得のいく作品に仕上がるかは「焼いてみないと分からない」のだから、作者だってきっと焼き上がりを見て、思いがけず素敵な色や形が出た時に「何となくええやん」ってなるんじゃなかろうか。

ところで、ドキュメンタリー映画作家の佐藤真は、自身の著書の中で「映像には言葉では捉えられないものがあって、作り手の意図や主義主張を超えたところにある「何か」が、ドキュメンタリー映画をドキュメンタリー映画足らしめる」といった発言をしている。

そしてその「何か」の正体を、ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンの提起した「アウラ」の概念を引用し「いま、ここにしかないという芸術作品特有の一回性」であるとしてドキュメンタリー論を展開していくのだが、翻って辻村氏の「志野茶碗作り」を見ていると、この「アウラの話」を思い出さずにはいられない。

と言っても、辻村氏が「卯花墻」の持つ強いアウラに惹かれて、国宝のコピー作品を作ろうとしていると糾弾するわけではない。そうではなくて、確かに「卯花墻」にインスピレーションは受けたが、その時に辻村氏の心に沸き起こった言語化できない「何か」を、彼は一心不乱に追い続けているのではないか。

そしてそれはきっと、恐ろしく途方もない作業に違いない。まず「自分は何に魅了されたのか」について考えなければならないが、そもそも言語化できないモノを理屈で捉えようたって、土台無理な話だ。むしろそれは「言葉にした途端、魅力を失う何か」であるという、逆説的な答えしか導き出せないだろう。

そもそも、芸術作品が完成した結果としてアウラが発生するのであって、アウラを求めて芸術作品を作ること自体、逆説的なアプローチのような気もするが、それでも自分なりに出した答えを作品に生かす段になって、また途方に暮れる。

上述したように、陶芸は辻村氏ほどの技術を持ってしても、結局のところ「焼いてみるまで分からない」のだから、まして相手は安土桃山時代の国宝、下手をすればロスト・テクノロジーである。

だから辻村氏は年間4千個、足掛け3年1万2千個もの茶碗を一心不乱に作り続ける。番組では、言い方は悪いが「数撃ちゃ当たる」の精神で、思いつく限りの手法を片っ端から試していて、結果さえ良ければ電子レンジで加熱しても構わないとさえ言っていた。だからか、辻村氏は一個の茶碗の成型に1分ほどしか費やさないという。

こんな陶芸家、他にいるだろうか。写真家の森山大道は、街角スナップ写真を撮る極意として「とにかく歩いて、中途半端なコンセプトは捨てて、その時に気になったものを撮りまくれ」と発言していたが、辻村氏の茶碗作りも「とにかく作って、焼きまくれ」の精神のように感じた。

そうして完成した茶碗は、もちろん単なるコピー作品ではない。なぜなら、彼が追いかけた「何か」は卯花墻を見て感じたアウラ、即ち「いま、ここにあることの一回きりの凄み」であって、モノとしての卯花墻ではないからだ。だから、卯花墻と対面する時の自分の心境次第で、それは移り変わるものなのかもしれない。畢竟、茶碗作りの過程はそのまま自己への問いかけともいえるだろう。

辻村氏は番組の最後で、自身の茶碗を撫で回し、茶を入れて飲む。たとえ欠点があっても愛おしく、言語化できない部分の面白さを司会の小野正嗣に説くが、まるで禅問答の末に悟りを啓いた僧侶のような表情をされていたのがとても印象的だった。

惜しむらくは、小野正嗣が「この茶碗の一瞬の中に焼き物の歴史、未来がある。たとえ宇宙を作った人がいなくなっても、この作品は在り続ける」的なコメントで締め括るのだが、これがちょっと意味が分からない。辻村氏も「?」みたいな対応をされていたので、番組のオチとして少し的外れではないかと感じた次第である。

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