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社会人になるに寄せて

あと2ヶ月弱で社会人だ。私はジャーナリズムに携わる、という進路選択をした。
おそらく4月からは今よりも忙しく、自分のことについて今より深く考える余裕もなくなるだろう。日々に余裕のある今のうちに、なぜ自分がこの選択をしたのか、記録しておきたいと思う。将来辛くなったりして、人生の岐路に立った時のために。


「将来の夢はなんですか?」
年齢が若ければ若いほどされるこの質問。小学校の4月の自己紹介カード、卒業文集、立志式...。私たちは小さい頃から、将来の自分像を思い描くよう強いられてきたのかもしれない。

二項対立的に書くのはそもそも間違っているのかもしれない。ただ、あえて書くのならば、この質問に対して人は積極的な姿勢で答える場合と、消極的な姿勢で答える場合がある。

積極的な姿勢で答える(ことのできる)人は、迷いなく夢は〇〇であると答える。小さい頃から職業としての夢を決め、実際に自己実現した友人がいる。それはすごいことだと思う。

消極的な姿勢で答える人は、夢がないと言ったり、その場で思いつきの答えを言ったり、「サラリーマン」など抽象的な答え方をしたりする(小学校の自己紹介カード、クラスの4分の1くらいみんなサラリーマンだった気がする)。他の人のことは分からないけど、こっち側の人は多いんじゃないかなと思う。

自分は後者だった。辿った夢は覚えているだけでも昆虫博士、寿司職人、自転車屋、電車の運転手、サッカー選手、気象予報士...。
夢を聞かれるたびにその答えは移り変わっていった気がする。それはもちろん「今」だけで精一杯だったために、将来のことなんて想像がつかないということでもあった。日々何かを感じて考えているけれど、イメージは具象化できなかったし、それを言葉にして、自分の外に表現するなんて出来なかった。

今考えると、そもそも将来の夢の答え方は職業で答えるのが全てではないから、漠然と「のんびり暮らしたい」とか「山登りに明け暮れたい」とかでもいいわけだ。ただ、そんなプロフィール欄の「将来の夢」にそういった答え方をした人は周りにはいなかったし、自分もそうしよう(そんな答えが許される)とは思わなかった。何らかの職業という、一見立派に見える夢を書かなければならないという規範があったのかもしれない。


自分の職業としての夢をある程度まとまった考えと言葉で説明するようになったのは、中学生の頃だった。それは「教師」だった。親が教師だったこともあり、自分にとって身近だったこともあるのかもしれない。ただ、一番大きかったのは、中学生だった頃、何人かの人間的に尊敬できる教師に恵まれたことだと思う。3年間で自分が成長させてもらったように、自分も誰かの成長にずっと関わっていたいと思っていた(ように記憶している)。


教師は教師でも、中学校の社会科の教師になりたかった。なぜ?と聞かれると、中学生という時期は思春期もあって人間的に1番成長する期間、そういう時期に関わりたいこと、社会科は実社会と1番繋がってる気がして、社会で生きていく上での人間的な成長に一番関われるから、と説明していた。とにかく誰かの成長に関わりたい、と言っていた気がする。


高校2年生くらいまで、社会科の教師という職業を軸に考えていた。そんな自分の認識の変化は、地域の音楽団での活動でだった。

自分の地域の中で活動する中で、高齢化や地域の文化の廃れる様を目の当たりにした。高校生にして、はじめて地域社会の抱える課題なるものを体感した。

自分の中に、地域の課題を解決したいという思いが芽生えた。と同時に、解決のための前提条件として考え始めたのは、課題を多くの人が知る、ということだった。
地域の音楽団の演奏会情報が地元紙で紹介され、当日客席は満席になった。メディアの影響力の大きさを感じるようになったのもこの頃だ。

そんなわけで、社会科の教師のほかに、記者になりたいと考えるようになった。そして、地域社会について勉強でき、かつ教員免許を取得できる大学を目指した。

大学受験は、AO試験を受けた。センター試験や2次試験で合否を決めるというものでなく、別の筆記試験と面接試験で合否を決めるものだ。志望動機や面接試験では、地域社会の課題を解決するために、地域社会学を勉強したいと言っていた。実際そう思っていた。

運良く大学に合格した。せっかくだから、まずは浅く広く学ぼうと思った。海外研修に行ったし、いろんな国際間授業も受けた。ただ、英語に対する苦手意識も多少あったせいか、自分を海外色に染めるのは難しいと感じた。

2年からはコロナだった。研究室に配属になって、アパートで有斐閣の『社会学』を読み耽ってた記憶がある。福祉の現場で働くようになったのもこの頃だった。

3年になると就活が存在感を増してきた。いよいよ自分が何者として働くのかを決める時期になった。マスコミを受けるのと同時に、教職もやはり志望度は高かった。

この時期、高校生の頃からぼんやり思い浮かべてきた職業としての2つの夢について、その内容に共通性を見出せるようになった。

社会科教師も記者も、知られていない社会的な事象を伝える、という役割を担っている。同じ事象を伝えるにしても、論点や切り口で問題意識の違う伝え方ができる、情報生産者としての側面を持つ職業だ。
困っている人がいても、それが知られないことには支援も回ってこない。それが知られることが、困り事を解決するための第一歩だ。
職業名に囚われない自分のやりたいことが、就活準備の段階でやっと見えた気がした。

あえて違いとして何かを言おうとするならば、教師は二次情報を伝える立場、記者は一次情報を自分で取ってくる立場だ。伝える、ということは同じでも、何を伝えるのかは少しだけ異なる。

結局、メディアを軸に就活をした。福祉のバイトの経験も大きかった。中高生に教える、ということはそれはそれでもちろん大きなことだと思う。ただ、中高生はもちろん、実は大人でも知らないことがたくさんある。一枚の壁を隔てた向こう側に、貧困や虐待、教育の機会の剥奪があることを知った。それまで何も知らなかった自分が怖くなった。誰にも知られずに困っている人の状況という一次情報を取ってくる立場になりたいと思った。

まずは自分が色々な現場に足を運び、世の中のことを知りたい。そしてそれをより多くの人に伝えたい。

地方のメディアに記者として就職することにした。

けど、いざ内定してから、迷いが生じた。それまであまり考えていなかった大学院という選択肢が魅力的に映ってきた。

大学での学びが十分だったのか、という自問もあった。コロナやら教職に追われるやらで、やりきれていない感はあった。社会学という学問自体、記者と何が違うのか、世の中を知り伝えるという想いを叶えるのに最適なのではないか、とも思った。就活中より7月の方が悩んでいた。
折り合いは時間の経過とともに無理矢理つけた。院への思いは卒論にぶつけるぞ、昇華させた。


卒論を終えた今は、何となくやり切った感は得ることができた。テーマ的にも修士で卒論の続きをやろうとは思わないし、いろんな問題に触れに行くという選択は、そういった面では良かったのかもしれない。

卒論を通して、長い文章を書くこと、1つのことを深く考えることは、それなりに好きなのかもしれないとも思えた。キャリアは単線じゃなくてもいい。もしこの先、何かの問題を極めて考えたいと思ったら、戻ってくればいい(ただきっとその選択をするのには、不確かな未来に舵を切る、ある程度の覚悟が必要かもしれない)。

地元を離れたままになることには、少し葛藤もあった。地元に帰りたくなったら、あとは現場に行き続けることに疲れたら、教員免許を使う。そっちのルートもある。

今ある職業名や立場、王道とされるキャリアの道。そんなものに左右されず、やりたいことに素直でいたい。その結果として進路が選択されていた、というのが理想だ。就職は進路選択の終わりなんかじゃないはずだ。


「将来の夢はなんですか」
社会人になったら、おそらくこう聞かれることはほとんどないだろう。それは、この質問に対する答えが、多くの場合職業名を想定されて作られているからだ。

ただ、この質問は、職業名を答えるという規範さえなければ、きっともっと自由で素敵なものになる。自分の好きなこと、やりたいことを自由に語るのは、きっと楽しいはずだ。

コーヒー豆に詳しくなりたい。色んな温泉に行きたい。薪ストーブのある家に住みたい。これも今の自分の立派な夢である。

自分の将来に対して変に構えず、妙な規範に縛られず、自由に生きていきたいな。

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