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午前5時の異社会

生きていて何となく空しさを感じる現代人は、私だけだろうか。

「人は1人では生きていけない」という言説は、目につきすぎてむかつくほどに世の中にあふれている。ただ、その言説を何とか否定しようとしても、やはりそれは認めざるを得ないのだと感じる。一人暮らしを4年したおかげで、一人の時間の楽しみ方はそれなりに知った。しかし、それでも誰かとつながりたいという欲求がなくなることはない。

現代の日本では、ネット環境が整備され、オンライン上では誰かといつでもつながっている。だけど、顔を合わせて誰かと話す、という機会は少なくなっている。

急速に産業化が進んだ1870年代のドイツで、社会学者テンニースは、それまで家族や農村で見られた「信頼に満ちた親密な水入らずの共同生活」とは異なるタイプの共同生活が生まれつつあることを指摘した。テンニースは前者をゲマインシャフト、後者をゲゼルシャフトと名付けた。

テンニース自身は、ゲゼルシャフトへの移行を、目的や利害達成のための仮初の人間関係化だと悲観的に見ていたようだ。

テンニースさん、多分あなたが現代の日本の人間関係を見たら発狂してしまうだろう。現代の日本では、アパートの隣に住む人の顔も名前も知らないことが当たり前だ。そのせいで、隣の部屋でひどい虐待があっても気付かれず、毎年何十人もの子どもが亡くなっている。多くの老人が、何週間も気付かれないまま一人部屋で亡くなっている。現代の日本は、リアルな人間関係を理想とすると、ディストピアと言えるのかも知れない。

そんなことを考えていた初夏。私はすぐそばでゲマインシャフト的な異社会を発見した。

午前5時、昨夜飲んだ3本の缶ビールの影響か、トイレに行きたくなり目覚めた。数日前が夏至だったその日は、すでに窓の外は明るかった。せっかく目覚めたので、近所にあるけど行く機会のなかった、紫陽花で有名な寺に散歩に行くことにした。

寺までは歩いて15分。初夏の朝は意外にも人が多く、街外れだというのに10人くらい(多くは高齢の夫婦)とすれ違った。最初にすれ違った70代くらいの夫婦は、私に「おはようございます」と声を掛けてくれた。随分親切な夫婦だなと思った。ただ、次にすれ違った中年夫婦も、その次にすれ違ったおばあさんも「おはようございます」と声を掛けてくれた。
どうやら朝5時には、知らない人にも挨拶をしてくれる文化があるらしい。結局寺まですれ違った10人ほど、例外なく挨拶をしてくれた。

午前5時に外を歩いている人というのは、必ずしもマジョリティーではない。その分、ある種の仲間意識があって、同じ時間に歩いている人に挨拶をする文化があるのだろうか。それとも、その時間歩いている比較的高齢な人びとが経験してきたゲマインシャフト的な社会の風習が、朝5時という世界線では支配的なのであろうか。どちらにしても、人間関係が希薄になっている現代、見ず知らずの私に挨拶をしてくれる世界が身近に存在していることに驚いた。

紫陽花を見たり、写真を撮ったりしている間に1時間ほど経った。6時半の世界では、早めに出勤するスーツを着たサラリーマンがマジョリティーだった。そこでは1時間前の挨拶は跡形もなく消えていた。

午前5時、そこには昼の社会とは違う社会が存在していた。紫陽花を写真に撮りながら、それを知らずに社会に諦念を感じていた自分は視野が狭かったのだと省みた。その社会は、現代も捨てたものじゃないと私に訴えかけているようだった。午前7時、2時間前に目覚めたときより少しだけ救われた気持ちで、静かに二度寝に入った。

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