『日本デジタルゲーム産業史』著者からみた『ゲームの歴史』

芝浦工業大学の小山友介と申します。
noteに投稿するのは初ですので、何か変だったら教えてください。

無駄に長い前置き

このたび、『ゲームの歴史』に関するアレヤコレヤの中で、「すでに存在するマトモなゲームの歴史書はある」として何人もの方に拙著『日本デジタルゲーム産業史』を挙げていただき、本当に感謝しております。研究者として身が引き締まる思いです。

ぶっちゃけると、『ゲームの歴史』、出た当初は興味なかったんですよ。発売から数日して色々とネット内で騒がれだして、FB内で「どうでしょう?」って聞かれたときに慌てて電子版を1巻だけ買いました。。。で、パラパラと2章ぐらいまで目を通して「うわぁ・・・」と。

「素人だけど政治問題を考えてみた」というオピニオン系のマンガやエッセイっていっぱいありますよね。アレって専門家はいちいち問題点を指摘したりしません。キリがないですし、もし著者が人格的にアレだったら指摘した自分の人格もアレのように見えますし。「争いは、同じレベルのもの同士でしか発生しない!!」というやつです。こちらにプラスが何一つ無い。

ゲームは(良くも悪くも)うるさ型の人が多いので、そのうちいっぱい物言いがついて淘汰されるだろう、ダメなら学会(日本デジタルゲーム学会)の夏季研究大会の発表のネタにでもしようかな、ぐらいに思って静観してました。

結局、事実上の絶版扱いとなり、学会で話したりする必要もなくなったのですが、近日出たnoteの有料記事内(https://note.com/j1n1/n/n7041bcb50f5c)で、「『ゲームの歴史』を読む限り、岩崎・稲田両名が論じたかったのはまさにこの「産業史」だったように思う。」という記述があったので(確かに、目次見ているとそうとしか見えない)、頭の中で色々考えていたことを少し書いておこう、と思ってこのエントリーを書いています。

※本当は有料記事部分について触れるのはルール違反でしょうが、話の流れ上どうしても必要だったのでご容赦を。

事実の非常に細かい指摘(特に、実際のゲーム開発に携わった人でないと言えない指摘)は、すでに山ほどネットに存在しているので、ここでは、論文を査読したときに査読レポートの冒頭に書くような、「議論の立て方」に関する部分の指摘をしてみようかと。

産業史なら、ゲームの定義で高説をぶつ必要はない

産業史なの?

本の冒頭部分というのは、その本で書かれる範囲を定義する部分ですので、かなり気を使います。『ゲームの歴史』は、その部分の絞り込み方がすごく甘いんですよ。

「はじめに」の冒頭、「歴史を学ぶとは、未来に戦略を立てること」の部分の4段落目と5段落目で書いている内容はこうです:

第4段落:それらのゲームが(小山注:前の段落で家庭用の据え置き型、携帯型、PC、ケータイ、アーケード、が挙げられています)、いつ、どのようにして生み出され、それによってゲームを取り巻く世界がどう変わったのかを、全3巻に凝縮して綴ったのが、この本です。

第5段落:私たちはこの本を、ゲームクリエイター志望者や、ゲーム業界で働きたい人向けに書きました。つまり、「面白いゲームを作りたい人」や「ゲーム産業を繁栄させたい人」に呼んでほしいと思っています。


ここだけ読むと、確かに、「ゲームデザイナー志望者や業界で働きたい人の基礎教養として、産業史を伝えたい」と思えますよね。その後も、「岩崎・稲田史観」による解説の例として挙げられている例も、すべて産業史で扱える内容です。

ただ、そうだったら「ゲームの根本精神は「ハッキング」」などという節を立てて一節をぶつ必要は全く無いですし、第1章を「「いたずら」とゲームの関係」という、ゲームの定議論にする必要もない。

意外と思うかもしれませんが、拙著(日本デジタルゲーム産業史)では、ゲームそのものの定義はしていません。書き出しの「ゲームの歴史」の箇所に脚注を入れて、本書では特に断らない限りコンピュータゲームのことを指す、としているだけです。

日常的に使っている言葉を再定義するのは難しく、怖い

ゲームとは何か(もっと言えば娯楽とはなにか)、という問いはそれ自体が重要な問いです。特にゲームとゲームでないものの区別(デマーケーション問題)などを触れ始めるとドツボにはまることになります。

産業史で扱うようなゲームタイトルは、どれも「誰が見てもコンピュータゲーム」という共通理解が取れているものばかりなので、定義する必要がないんですよ。

こういった、「不要なことは読者の理解の妨げになり、議論が濁るから書かない」というのは、マトモに社会科学のトレーニングを受けていたら身につくことなんですが・・・

(注)ゲームについてなにか言うなら、それこそ、ホイジンガやカイヨワといった古典として挙げられる議論や、サレン&ジマーマン(『ルールズ・オブ・プレイ』)やユール(『ハーフリアル』)の議論を読み込み、比較対象した上で、どこが同じでどこが違うのかを明示して定義する必要があります。いきなりゲームをするとはハッキングだ、と書けるはずがないんですよ。多分、そういった先行研究があることすら知らなかったんだろうなぁ、と思います。

産業史のふりをしたデザイン史(しかも限りなく英雄史観かつ勝者の歴史)

単に時系列にゲームを語ってるだけ

この本、第2章でスペースウォー、コンピュータスペース、3章でポン、4章でブレイクアウト、スペースインベーダー、パックマン、(いきなり飛んで)ゼビウス、と触れていきます。5章で(アタリショックとゲーム&ウォッチを挟んで)ポパイとドンキーコング(と言うか、宮本茂氏の礼賛)、と続きます。その途中で色々産業でのエピソードを入れていますが、基本的には有力タイトルをつなげて解説する形をとっています。

ただ、この議論の仕方では、産業史として重要な各産業の勃興がちゃんと書けません。というか、PCゲーム市場ほぼ無視ですし(「はじめに」では挙げてるのに)。

現状、ゲームデザイン史(影響史)をちゃんと書ける人は居ません

この形式では、有力タイトルがどういうゲームデザインだったのかを見ていくデザイン史として書いているように見えます。

そして、デザイン史としてみた場合、PCゲーム市場ガン無視だと色々と歪みが出てくる(RPGやアドベンチャーゲームの議論が出来ない)のはわかりきったことです。

また、有力タイトルの裏には数多くのマイナータイトルがあり、それらの作品から刺激を受けて生まれてくることが多いですが、その部分はほとんど書かれていない。この箇所はゲーム開発者から多数の指摘があるから専門外の私があえてすることではないと思います。

おそらく、ゲームデザイン史を紡ぎたいなら、過去から現代に至るまでの膨大な数のゲームタイトルを分析し、その影響関係を紡がないといけないはずです。

個別のゲームタイトルだったり、ゲームデザイナーについてはオーラルヒストリーの蓄積が徐々に積み上がってきています。それらを読み込んだ上で、ゲームシステムを分析し、当時の状況から「XXのゲームを開発した人は、YYを遊んで参考にした(影響を受けた)可能性はあるか、それともXXのゲームは突然変異的に生まれたのか」を丁寧に検証する作業が必要なはずです。

少なくとも、私には書けませんし、今までちゃんとしたゲームデザイン史が書かれていない理由でもあります。

歴史への向き合い方に難がありすぎ

過去の出来事についての当事者の発言は怪しいのは確かだが、そのために抑えるべきは当時の報道記事

『ゲームの歴史』への反論に対して、著者の岩崎さんはツイートでこう述べたそうです

「これだけははっきり述べておきたいのですが、歴史では「当事者が語ること」ほど信用が置けないものはありません。むしろ疑ってかかった方がいい。ですので「当事者に聞いたからOK」とはならないのです。一番信用が置けるのは利害関係のない非当事者である第三者の目撃証言です。」(https://twitter.com/huckleb.../status/1610392838231162881...

ここまでは、決して間違いではないです。ただ、この本の場合、「非当事者である第三者」=「著者(岩崎氏)」であり、怪しい記憶頼みになっているのは同じです。

自分は歴史学が専門でないので(入門書をかじったぐらい)あまりこういうことをいいたくないのですが、こういう際に参考にするのは当時の報道記事です。もう少し具体的に言うと、「伝言ゲームが発生しない同時代に、それなりに信用できる場所から文書として発表され、記録されたもの」です。

拙著(日本デジタルゲーム産業史)は、本文中に具体的な数字(ゲーム機の販売台数など)を記すために、当時の新聞やビジネス雑誌を大量に用いています(無料で検索・ダウンロードできる環境を提供してくれた、勤務先の芝浦工業大学に感謝です)。

そういった記録がない場合は、過去を振り返ったインタビュー記事や、インタビュー内容の齟齬などをチェックしてケーススタディとしてまとめられた学術的な記録をあたります。そういった手順を踏む必要があるのです。

『ゲームの歴史』をデザイン史として書くなら、当時のゲーム雑誌にインタビューは相当な数が載っていたはずです。それらを参照したのでしょうか?

結局は、「俺様節」がまた1つ産まれただけ

こういう言い方はナンですが、ゲームって舐められやすいんですよ。身近で、社会的な威信があまり高くない趣味ですから。大したことないと思ってる。

日本人はみんな日本語を使いますが、だからといって日本語学者ではありません。資本主義経済の中に住んでいますが、経済学者でもありません。

ゲームも同じです。ゲームを長く遊んでるからといって、ゲームの歴史についてちゃんとした水準で(学生がレポート作成の際に参考文献リストに入れても問題ないレベルで)議論できるとは限らない。

それでも、そう思わない人がたくさん居るのか、ネットを見ているとゲームについて一言いいたがる人多いですよね。「オレ(ワタシ)、ゲームにはちょっとうるさいよ」という一言居士がたくさん居る。

私も過去にネットメディア(ダイヤモンドオンラインと文春オンライン)に記事を寄稿したことがありますが、間違いだらけのコメントがワンサカ付きました(たまに、こちらの勘違い指摘もあるので、全部ダメというわけではないのですが)。

最初に書いたことに戻るんですが、『ゲームの歴史』は、そういった本の一冊としか見えないんですよ。


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