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万華鏡 第一曲『常世の理想郷』4

参道

―――夕焼けに蒼い月が顔を覗かせる頃。見上げる狭間の空は茜色へと落ち、うっすらと見える白い雲はその姿をより儚げに薄めている。
 視線を落とせば周囲は黒々とした森に包まれ、鬱蒼とした木々の所為か普段から落ち着いているであろう空間は木漏れ日が差し込む深い陰に覆われ、神秘的な静寂の傍らに、不安を煽るような不穏さを俄(にわ)かに醸し出している。
 聞こえる音とすれば自らが歩みを進める足音と、時より斜面を登る道すがら掻き分ける草木の声だけ。何処かの枝で羽を休めているかもしれない、大瑠璃の囀(さえず)りすら聞こえない。
 もう山の中に足を踏み入れてから相当な時間を歩いている筈なのだが、数十分、数時間経ったかも定かでは無い。現状では、その答えを知るには世界を染める色合いを見る他にない。もう必要無いと思い、通常の腕時計であろうと、手首に装着している腕時計型の端末でさえも、普段身に付けているそういった類の者は総て置いて来てしまった。
 現在目指している場所の位置が記されていたメールも、本文に記載されていた通り自動的に消失してしまった。でも、場所は確かに記憶している。もはや、わざわざ自らの位置情報を晒してしまうような代物を持っている理由は無いだろう。
 しかし、気懸かりは有る。まだ明るかった時間からして結構登った筈にも関わらず、休憩を挟みながらにしても、歩を進める先には目的の場所など一向に現れず、その姿の片鱗すら見つからない。ましてや、道が有るとは言え果たして今進んでいるそれが正道なのか如何かも疑わしい程だ。
 ふと、今朝の朝刊に乗っていた記事が頭を過ぎる。もしかすると、他の方々も同じように、このような気持ちだったのだろうか……。
 誰にも見つからぬよう、忍び込むように立ち入った緊張も有るのか、加えて疲労もたたってか思わず嘆息を零すが、それが雑踏どころか虫の声すらない為に普段よりも増して聞こえる。今更焦燥などはしていないが、不安と不信が入り混じっているには変わらず、それ故か精神的疲弊は大きく身体と足取りも重みを増していく。
 今日は『真紀2710年6月30日』。暑さも重なってか、剥き出しの土が続く傾斜を踏み締める度、額から滴る汗と共に、体力も気力もまるで山そのものに吸い取られるように徐々に削られていく。
 尚も進んだ先で少し開けた場所に出た為に足を止めると、意図せずに震える両脚を宥めるように、大きく息を吸いゆっくりと吐き出す。
 どれだけ眼を凝らして奥も周りも見渡しても、何処までも大きな木々が聳え立つ森が広がり、囲まれているばかり。人影は勿論の事、狸等の動物、その影すら見受けられない。
 ましてや、時間帯によるものの、六月末であるこの時期に蝉が鳴いていないというのも不思議ではないだろうか。今年が冷夏だと言う情報は無く、気温は例年通りとの観測が出されている。
 ……ともあれ、そういう時が無いとは断言出来ないし、それが不思議であれ異様であれ、あまり気に留める事でもないのだけれど。
 塗れた額を手にしたハンカチで拭いながら、如何しようもなく再び見上げる目線の先では、天然の屋根の隙間から哀愁を落とす空が顔を覗かせるばかり。
 日々変化を伴いながらも、見上げれば当たり前に広がる空であるが、今はそれが少々羨ましくも思えてしまう。普通の人や人間は、そうでもないのかもしれないが……。
 ……所詮は、現実に嫌気を差して逃げ出した、負け犬の戯言だ。現状となっては、昔は己の居場所と思い込み、微かに恋しく思う程に暮らしていた住まいにも、何の感情も湧きはしない。其処が居場所と思える心も、何時からか既に枯れ果ててしまっていた。気に掛かるものといえば家賃等諸々の金銭的問題であるが、大した事でもないだろう。哀しむ者さえも、誰とて居ないだろうから。
 戻るつもりなど毛頭無い。
 例えそれが暮らしていた住まいであろうと、現世たる社会であろうとも……。
 しかし、空の色合いから察しても日没が近いのは明白だ。果たして、このまま闇雲に進み続けても目的の地が見つかるかという確証は無い。
 懐中電灯などは持参していないし、携帯端末も置いてきた為に明かりを燈す代用すら無い。
 通常ならば、現実的に考えれば今からでも来た道を戻るのが妥当なのかもしれない。
 迷惑メール紛い―――基、そうとしか思えない風説を信じて記されていた山へと訪れたものの、やはり所詮は悪戯(いたずら)目的の範疇を出ない、証も無い眉唾物を信じたのが間違いだったのか……。
 その考えが頭に浮かぶものの、自らを嘲笑するかのように小さく鼻で笑いながらそれを心の奥に沈める。
 僅かに残っているのであろう未練と、総てを捨て去りたい二つの思いがせめぎ合い、前にも後ろにも進めず後ろを振り返る。其処は相も変わらず同じような幹と緑の群れが更なる陰を生んでおり、麓から僅かに離れた街並の輪郭すら窺えない。
 諦めに近い憂鬱の中に蠢く小さな冒険心と好奇心を頼りに、此処までやって来た。
 例え街が見えたとて、如何なのだろう。何かを感じ取れるだろうか……。
 例えこのまま戻るにしても、果たして『何処へ』帰るというのか。
 不幸が飛び交う、希望も夢も無い、それを持つ者は徹底的に痛めつけられ捨てる事も余儀なくされ、純真はどす黒く穢れていく。他者の不幸を願い嘲笑う者達だけが君臨し幸せになる事を許され、誰かの為に生きようとする生命に居場所は無い。
 そのような現実に立ち向かいながらも、結局は抗う事も其処で生きる事も投げ捨てて、現実と異なる場所を求めた敗北者。そのような奴が帰る『居場所』など、現実の何処に在ると言うのか。
 ならば、例え嘲笑され罵倒され忘れ去られようとも、眉唾物であろうが悪戯であろうが風説であろうが、それを信じて探し廻ってみても罰(ばち)は当たらないだろう。
 僕が、俺が、私が―――自分など居なくとも、時間は進む。
 自分など居なくとも、星月が煌く夜を経て、再び旭日は昇るのだから……。
 眼を閉じて、山の空気を全身に巡らせるかのように香りを味わうと、諦めにも達観とも取れない、空元気に似た吐息を口から零す。
 人工物に囲まれた空間とは異なる、何処か冷たく不穏ながらも神聖な雰囲気に浸る中、それすらも丁度いい安らぎとなり、胸を締め付けていたような窮屈さは微かに緩む。
 生きている限り時間はまだまだ残されている。目的地の探索再開に意気込むべく、自嘲気味に僅かに上がっていた口角を元に戻しながら再び眼を開ける。
 人にも人間にも見えぬ生存競争を繰り返し、それ故に逞しき神秘性を併せ持ちながら生い茂る木々が齎す暗闇は、空から下ろされる淡い蒼々とした光と溶け合い、涼しくも暑くも無い空気を帯びた深く濃い藍色に彩られている……。
 ―――……認識した途端、胸に燻っていた気持ちは一瞬にしてその毛色を変え、鬱陶しかった筈の熱は吸い上げられていく。
 目を開けた先に映った木々や草花は、確かに同じである。
 だが……目に映る光景が、その色が明らかに不自然だ。
 闇夜のような何も見えない暗闇でもなく、景色はうっすらと見えるのだが妙に蒼掛かった色をしている。それは月の光が強い日ならば見慣れた光景ではある。
だが、今目の前に映るそれは、遥か空に在る蒼い月によるものではない。
 と言うよりも、光が差し込んでいる様子は無い。
 不安に駆られて仰いだ空は、闇に閉ざされているかのように星々の片鱗すら見えず、月の輪郭すら窺えない。日没が間近だったとはいえ、つい眼を閉じる前までまだ茜色を漂わせていた事から考えても、その僅か数秒で景色の色が一転するなど考え難い。そうではないのなら、時間に関する自身の認識能力が遂に可笑しくなったのか、完全に頭が狂ってのかであるが、少なくとも意識ははっきりとしている。
 突如として変異した状況に思考がついていかないものの、心は妙に落ち着いた感覚に囚われる。しかし、それは冷静さとは異なり、考えるのを止めている状態に近い。
 夢か現か幻か。何れにせよ、目の前で変わらずに映る風景を前に、踏み止まっていた思考は暗闇の中で手探りに動くかの如く、本来の感覚を恐る恐る取り戻し始めて行く。
 一度自覚してしまえばそれを振り払うのは容易ではなく、先程までの森独特の神聖さが漂っていたものとは異なり、心までも震わし凍えさすような、徐々に徐々に忍び込んで来る言い知れぬ不気味さのみが覆い尽くす雰囲気に呑まれかける。それでも、混乱しそうになりながらも如何にか平静を装いつつ、上天から下ろした目線で辺りをゆったりと見渡す。
 ―――すると、鈴を鳴らすような音が森林へと響き渡る。
 落ち着かない中で聞こえた音に両肩を跳ね上げながら後ろへ振り向くと、その状況に思わず眼を見開く。
 目の前には影も形も無かった幅広の石段が、半ばに築かれた石鳥居を潜って緩やかに上へと向かっており、その石段を囲むように幾つもの石造りの燈籠が並べられている。
 光の無い燈籠は空間を包み込む闇にその身を染めているように黝(あおぐろ)く、道を明るく照らすなど思えない程にただただ冷たさだけを醸し出している。
 休憩の時の記憶を辿っても、つい先程までこのようなものなど無かった筈だ。それとも、やはり自身の目や頭が可笑しくなってしまっているのか。気付けば、自らが立つ地面も石造りとなっている……。
 今此処に立つ場所が先程まで眼にしていた風景と似ているとしても、今まで自分が居た場所とは明らかに異なる。自分が今何処に居るのか、如何いう状況なのかも理解出来ず、言葉にならない思考ばかりが延々と巡り目線を右往左往させて独り慄く。
 ―――最中、再び鈴のような音が鳴り響く。
 一瞬身を萎縮させながらも、それが聞こえた方へと反射的に眼を投じる。
 すると、鳴らされた音に応じたかのように、石段を囲むように並ぶ石燈籠は次々と蒼白い星のような煌きを宿し、周囲の空間と道を照らし始めていく。
 それだけで硬直し、高まっていた心音は跳ね上がり声を上げそうになるものの、瀬戸際で踏み止まりながら鈴のような音がした方角である、石鳥居を抜けた先を見つめる。
 そして……淡い煌きに照らされて顕になっていくその場所には、一つの黒い人型の影が立っていた。
 燈籠が光を纏った衝撃の余韻も加わり、一瞬にして湧き上がる恐怖と驚愕が全身を駆け巡り、後退りしながら咄嗟に口を覆う。
 動悸は周囲に響くではないかと思う程に早打ちとなり、亡霊か生者かも判らぬ影は動きそうも無く、口を手で隠しながら荒くなりかけている呼吸をゆっくりと静めていく。
 身体全体に空気を送り込むイメージで鼻での呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻すように努めていると、その短い間にも燈籠の光は人型の影にも色を宿していき、何をするでもなく此方を見下ろしている姿形を明るみにする。
よく観察すれば、石鳥居の先に立っている影は緑色の和服と黒のような袴の装いを身に纏い、左手に自らの身長程も有る棒を持ち地面に立てている。闇のように黒い棒の先端には六角形の黒い輪が取り付けられ、それに幾つかの円形の輪が付属している。先端が六角形のものは見た事も聞いた事も無いが、おそらく僧や修験者の方が持つ錫杖と呼ばれる類のものだろう。
 星のような煌きが光源となり、淡く照らされる視界は先程よりも鮮やかであるものの、離れている所為もあるのか、それとも別の理由なのか、首から上が陰に覆われているかのように顔ははっきりと窺えない。
 ただ……何故か不思議とつい先程まで胸中を締め付けていた恐怖は薄れていき、不思議なものを見ている感覚ばかりが段々と強まっていた。
相手の髪は肩にも毛先が掛かっていない為、短いと思われるが性別は判然としない。視認出来る容姿からして人間、もしくは鬼神族か遣鵄族の人である可能性が高いものの、現状では種族も不明なままだ。
 此方の様子を確認してなのか、暫く此方へ視線を向けていたらしき相手は手出しする事も、あまつさえ何か喋る事すら無く、ゆっくり踵を返すと背中越しに此方を一瞥するかのような動作をした後(のち)、石段の奥へと歩みを進めて行ってしまった。
 まるで、「ついて来なさい」とでも誘うように……。
 歩を進める度に鈴のような音が聞こえ遠ざかって行く事から、おそらく二度聞こえた金属音もあの錫杖によるもので違いないと思われる。
 兎も角、立ち入りを阻むでも無く去り、まるで案内のように照らされた道を進む人物を目にしながら、これから如何するべきか思案に耽る。
 此方を一瞥して去っていく姿に、何故か不思議と拒絶は感じられなかった。
 浮かび上がる選択肢は二つ。あの人物の後を追うか、それとも引き返すかである。
 振り返れば、其処は不穏に満ち足りた森が広がっており、燈籠も無くひたすら黝(あおぐろ)い闇が底無く続いている。
例え来た道を戻るにしても、光源はおろか携帯端末も持たないこの状況下で、戻れる自信は微塵も無い。まして、この状況では果たして戻る道が今までと同じであるかという保証も無い。
 ……それに、もはや帰る必要も無いだろう。そうでなければ、何の為に此処へと来たと言うのか。
 考える時間は殆ど要さず、意を決すると再び身を翻し、止めていた足を動かして背中も遠退いてしまった人物を追って石段を上っていく。
 先程の怯えも疲れも何処へやら。石鳥居の前で一礼した後に端を潜り、石段を駆けて行く都度に鳴り渡る、硬くも透き通る音を体感しながらひたすら先へと伸びる頂上を目指す。
 それ程時間を置いていない為に距離はあまり離れていないと思われるのだが、既に追い掛ける人物は頂上へと到達したのか、遠退いていたその姿は見えなくなってしまい、燈籠が醸し出す煌きだけがただ静かに石段を縁取っている。
 足がもつれぬように留意しつつも押し寄せる荒い息を整えるべく、途中途中で急ぐ気持ちを緩めながら肩での呼吸を繰り返し、速度を緩めた両足に鞭打ち、想定よりも長い道のりを再び駆け出す。
 緩やかな傾斜を上る音色の他に耳に入るのは、静寂に響く、遠く、微かな錫状の音。微かな風も無く、変わらず草木が揺れる歌も聞こえない。
 何処か哀しくも郷愁すら感じる音色を逃さぬように、ただ真っ直ぐに続く道を進む。だが、既に見失ってしまった背中へは一向に追い付く事も敵わず、次第にその音も闇の中へと消え入るように姿を眩ましていく。
 やがて等間隔に奏でられていた金属音も聞こえなくなった頃、足は漸く石段の頂上に差し掛かる。
 音の出所までも不明となった事で焦燥感が募るものの、酷使した脚は休憩を要求し、熱を帯びた身体は両手を膝についた前傾姿勢となり、絶え絶えになった息を戻そうと荒く枯れた呼吸を繰り返す。
 抗えぬその行為に身を任せながらも、僅かに色彩を帯びていた世界が暗くなっていくのを感じる。まるで見守るように、誘うように淡い光を燈していた最後の燈籠から光が失われたようだ。
 深く濃い藍色の闇に覆われる中、周りを見回す余裕も無く、自らの小刻みに連続される息だけが声にならない音を耳に届けている。
 立ち止まった途端に瀧のように噴き出し、滴りそうな程額を濡らした汗を取り出したハンカチで拭いつつ、暫しの時間を挟んで落ち着いていく体調に合わせ、前傾していた前身を起こす。
 まだ少し息が荒いものの、漸く見渡せた周囲は変わらず深い森に囲まれている。だが、全く見えないという訳ではなく、空間は仄かに蒼がかったままだ。
 そして、自らが立つ場所から石畳の一本道が終わりも見えぬ奥まで続いており、それはまるで参道のように荘厳な雰囲気を醸し出している。
 他に在る道と言えば、振り返る先に在る暗闇に包まれた石段のみだが、今し方辿って来た道を戻る事は無い。
 もはや錫杖の音も聞こえないものの、おそらくあの人物はこの道を通って行った筈。
 根拠も無い自信を胸に、呼吸も落ち着き、震えていた脚も休憩を終えたのを確認すると、一呼吸を置いて奥へと向かい歩を進めていく。
 今度は駆けずにゆったりと歩き、一歩一歩を踏み締めるようにして端になぞって進んでいく。不穏である事には変わらず、怖いものは怖いが、それよりも空間から感じ取れる厳かな雰囲気が勝り、思わず背筋が伸びる。
 数は少ないものの、道の両脇に備えられた朱色の献燈籠がより周囲の空気を引き締める立役者となっていて、近付くと眠っていた光を自ら火袋に燈す。
 先程の石燈籠のものとは異なり、燈された淡い夕焼けの如き光は、まるで訪れる者を包み込むように温かい。
 歩み寄れば光を宿し、遠ざかれば静かに眠る。此方に合わせて幾度も暗く冷たい陰を温かく照らす
 その姿に有難味を覚えながらも、石畳と靴が擦れる音が響く道を進んでいく。
 やがて、数分程歩き続けたか。森を抜ける道の最奥部なのか、黝い闇に覆われた空間に、ぽっかりと空いた穴のような風景が窺える。明るさが差し込むそれを見遣ると、自然と足が早まっていく。
 そして、其処を潜り抜けた先に辿り着いた途端。
目の前に広がる光景に対し、思わず疲労さえも忘れる程に息を呑み、足を止める。
 天には闇を彩る星々が煌き、蒼い月が淡く安らかな光を大地へと燈している。広がるのは、それを受ける大きな湖。湖岸で僅かな満ち引きもないそれは、まるで山の中に落ちてきた空の一部かのようで、まさしく星の海を映す鏡であった。
 窪んだ土地らしく、目の前には緩やかな斜面を下る階段が設けられ、下った先の湖岸縁には堂々とした構えの鳥居が築かれている。夜空を思わせる蒼黒で彩られた鳥居から幅広な桟橋が湖の中央へと伸びており、伸びた桟橋の先にはまた一つ、紅白の身を持つ鳥居が佇む。
 まるで、其処に在るものを護るかのように。
星夜に浮かぶかのような湖の中央、其処には一つの神社が建立されていた。
 湖のみならず、一帯の空間、夜空までをも聖域として守護し、神様として祀り崇めるような立派な社殿は決して大きく無いものの、遠くからでも感じ取れる程に荘厳な雰囲気と近寄り難い神聖さに包まれている。
 何よりも、ただ一つに目を奪われるのではなく、夜空に浮かぶ星月、それを映す山と森に囲まれた湖、その湖上に建立された神社。その総てが繋がり、合わさり、心を鷲掴みにされる。
 確かに目の前に在る場所を耳にした事が無いのは勿論の事、現世とは思えない程に、時や自らを忘れ、魂を囚われる風景であった。
 ―――……最中、笛の音が聞こえる。
 茫然と風景に心を囚われていた中、波の音も風も無い空間に、突如として聞こえてきた笛の音色で我を取り戻す。
 疑う思いも不安も何処へやら、奏でられる調べに導かれるかのように目の前の階段を下ると、湖岸の砂を踏み締めながら鳥居の前に立つ。
 耳に届く音色は西洋のものではなく和のような風情が感じ取れ、ゆったりと心に沁み込むような哀しき調べは、鳥居の奥、桟橋の先に在らせられる社殿から届いている。
 よく目を凝らせば、笛を奏でているらしき人物の姿がうっすらと見える。
 まだ誰かが居るという事ぐらいしかわからないものの、心は沈みも浮きもせず、恐れも感じぬままに先程の石段と同じよう、注連縄飾りが施された鳥居の前で一礼をすると、左端を潜って桟橋の上を進んでいく。
 手摺も無い社殿へと続く一本道は、一切の装飾も無い非常に簡素な造りであるものの、それ故に湖面に描かれている夜空が花のように心を照らし、まるで星の海を渡っている気分にさせる。
 社殿の前に築かれた鳥居に歩み寄るにつれ、笛の音も段々と近付き、淡い蒼の光に照らされるその奏者の姿も顕になっていく。
 拝殿かと思われる社殿の前で調べを奏でているその姿形は、先程の石段で見掛け、自らが追い掛けていた人物の姿によく似ている。しかし、あの錫杖は手にしておらず、奏者の近くにも見当らない。
 桟橋を歩む度に鳴る木を軽く叩くような足音が凪の中に伝わるものの、奏者は止める素振りも予兆も見せず音色を紡ぎ続けている。
 程なくして、煌く鏡面に架かる桟橋を進み続け、社殿とを隔てる鳥居の前に辿り着くと遂にその顔を視認した。
 毛先が純白のように白い短い黒髪を垂らす小顔は端整な顔立ちをしており、鬼神族か遣鵄族か人間なのかはわからないものの、頭以外の全身を白と黒の洋装で包む青年のようであった。
 洋装から宮司さんや神主さんでは無いと勝手に判断しそうになるが、そうとは限らない。記憶している夕暮れからも現在が遅い時間であるのは違いない。この時間に参拝する者など滅多に居ないだろう。
 しかし、風景に似つかわしくないなどとはとても思えず、社殿の前で笛の調べを奏でている彼の姿は、幻想的に溶け合い寧ろとても美しい絵になっている。
 鳥居手前の端で佇みながら、その光景に見惚れ音色に聞き入りつつも、とりあえずは此処が何処なのかを尋ねたい。それに、彼なのかは定かでは無いが、あの追っていた人物の事も有る。
 身を隠すなどしていなければ、他に道が無かった以上、あの人物も道なりに辿っていったと思われる。もしそうならば此処へと来たはずなのだが、見渡しても笛の奏者以外の姿は影も見つけられない。
 だが尋ねようにも、彼との距離は結構空いている。大声を出せば届くと思うが、神社で大声を出すのは極めて無礼な行為だ。まして、歩み寄れる足場も有りながら遠くから大きな声でものを尋ねるというのは、聊か失礼である。待っていても、彼も此方を察する気配は無い。
 頭では近寄らねばならないとわかっていても、何処か踏み入りたくない雰囲気と、迷う思いに尾を引かれ何となく振り返るが、其処には辿ってきた道が有るばかり。
 向き直っても拙い怪談のように目の前に何かが居るとか、奏者が消えたりなどと起きる事も無く、変わらずに彼は調べを続けている。見上げる鳥居の上部―――島木(しまぎ)と貫(ぬき)の間、その中央に備えられた額束(かくつか)に掲げられた神額(しんがく)には、『星渡神社』という名が刻まれている。
 邪魔をしたくない思いや胸の中で燻り続ける好奇心、言い知れぬ不安が絡み合い、手持ち無沙汰の視線が右往左往する。それでも、小さくも深く呼吸を一つ挟むと、如何にか落ち着かない挙動を整え、静かに歩み寄ろうと意を決する。これまでと同じように身なりを正してから一礼し、社殿の敷地内に入るべく黝い星夜に映える紅白の鳥居の先へと足を踏み出す。
 ―――その瞬間、突然目の前から景色が消えた。



はじめまして、くま機士です。 駄文ではありますが、あわよくば私の描く物語が、激動する世の中で 一生懸命に生きる誰かの心を照らせれば、これほど幸せな事はありません。 もしも宜しければ応援の程、よろしくお願いいたします。