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万華鏡 第一曲『常世の理想郷』5

渡り橋

 何の音も無い。あたかも最初から何も無かったのかのように周囲の総てが黒一色となり、先程まで心地の良かった笛の音すらもまやかしだったかの如く途切れ、辺りは無音から訪れるしじまに包まれる。
 自らが平面上の床に立っている感触は靴裏から伝わっているものの、それが床なのか地面なのかもわからない。つい今し方まで其処に在った桟橋も、踏み出した一歩の先に広がる境内の神域さえも、自らの身体が果たして直立しているのかさえも曖昧になる程に、ただ光の無い無音が続く。黒に塗り潰された空間が狭いのか広いのかも、何処まで続いているのかも定かでは無い。それなのにも関わらず、光源も篝火さえも無い暗闇の中でも、見下ろす自分の両手や服装、姿形まで変わらず鮮明に見て取れる。まるで、自分自身がその空間から浮いているように……。
 山を登って以来、風景を含める状況の一変は二度目の体験で有るが、そう容易には慣れない。
 脳の処理が追いつかないのか超えたのか、焦燥に駆られて思考を放棄したのか、言葉も浮かばぬ頭を持て余し茫然と立ち尽くす中、やがて動き出す間も無く、暗闇の果てが仄かに紺色へと染まり始める。
 次第に色鮮やかさを増していく視線の先では、目を凝らさずとも見える星の如き小さな煌きが顔を覗かせ、まるで地平線から夜明けの旭日が昇るように蒼白い力を増していく。
 周りからはピンポン玉程の小さな瑠璃色の光球が幾多も放たれ、自らが立つ後ろへと極光(きょっこう)のような儚い尾を帯びながら真っ直ぐにゆっくりと流れていき、あたかも流れる星々の中に居るかのような幻想的な風景へと彩られる。
 覆い尽くしていた影を剥がすかのように、蒼白い輝きは闇でしかなかった空間を照らす。いつの間にか―――夜明けに呼応してなのか、地面には半透明の蒼い結晶板が綺麗な石畳状に顕現し、それは輝きへと続く幅広い道を模する。何処までも果てしなく、音も無かった空間には流れる光と共に鉄琴と似た穏やかな音が澄み渡り、周囲を柔らかく包み込みながら儚げに通り過ぎていく。
 昇りし煌きは太陽の輝きに近づき、輪郭から放射する蒼白の光は止め処なくもゆっくりと強まる。しかし、目を覆う程の眩さは無い。終始変わらぬ安らかな音色に反し、流れ星はその数を増す。
 程なくして、輝きは丸い身体を更に膨れ上がらせ、地面に現れた結晶状の石畳は立ち尽くす自らを残して後ろへと流れ始める。
 一歩も前後に歩んでいないのにも関わらず、大きくなる輝きと動く地面によって、自らが蒼白い太陽に向かって運ばれていっているのか吸い込まれているのか、はたまた光が迫ってきているのかも判別が鈍る。
 やがて、星をも照らす蒼白の輝きは自らの全身を包み込み、冷たくも温かくもどちらでも無い光で視界を、全身を満たす。
 尾を引く極光も見えず、静穏で安らかな鉄琴の音も遠ざかり、無音の空白が光に染み渡る。
 体感的には数秒程の静寂が訪れる中、微かに飛び交う、何かが起動しているかのような電子音を耳が拾う。
 意識して耳を凝らさなければならないものではないが、妙にはっきりとは聞こえない。
 直後、縦横無尽に飛び回る微かな電子音に交じり、明らかに一つの起動音が鳴る。それは、まるで分析や解析を終了したかのような信号と似ていた。
 それを合図にしてなのか、周囲は再び無音に包まれる。刻々と変わる夢のような展開に、次に何が来るのかと小さな焦燥が交じるものの、それを鎮める余韻も無いまま、覆いつくしていた光は霧散し、まるで天へと帰るように晴れ渡っていく。
 解き放たれ開けた視界に映るのは、地平の向こうまで広がる大海、その彼方へと向かわんとする黄金(こがね)の太陽。
 白雲が漂う空を朱と紺色が入り混じる紫に染め、微かに吹き抜ける風が狭間の時をたゆたっている。
 耳に届くは土肌に押し寄せる波の音。見遣る眼下では僅かな飛沫が舞い、落ちたそれを拾う群青の波が再度その身を寄せる。
 思わず覗き込みはしたものの、映り込む現状に一瞬たじろぎ、動揺しつつも安全の為にその場から後ずさる。如何やら、柵も無い崖の縁近くに立っていたらしい。
 今度は何処なのかと頭の隅で疑問を抱きつつも、彩られた空が纏う色から判断して、時刻はあの神社に向かう前かと凡(おおよ)その検討がつく。
 しかし、場所がわからない。今自らが立つ場所が小高い丘であるのかという予想は思いついても、山と呼ぶにはあまりにも程遠い。まして、視界の前方に広がるのは明らかな大海。あの山の近くに、海は無い。
 何より、立て続けにおかしな事が起きている所為で感覚が鈍っているだけなのかもしれないが、漂う空気感が妙に重い。
 実際に比重が如何とかいう物理的な問題ではなく、静寂にそよ風と潮の音が交じるごく自然的なものではあるのだが、妙に張り詰めているというか、不穏なものが含まれている。更に言えば、周りに誰もいない筈なのに、誰かに見られているような感覚が伴っている。それも一つや二つではなく、あたかも空間そのものに見張られているような。
 尤も、やはり感覚が狂っているのか、必要以上の恐怖心がそうさせているだけなのかもしれないが。
 一つ深い呼吸を挟んで自らを落ち着かようと努めながら周りを見回す。周囲には足首程の背丈に留まる草原が広がり、微風に身を揺らす緑の端々から蛍のような美しくも儚い黄色の光が飛び立ち、原の上で踊っている。
 ……だが、その光には蛍の姿どころか、虫の姿すら見つける事は出来ない。何か小さな光の粒が、草原の中からゆらりゆらりと外へ出て、宛ても無く彷徨(さまよ)っている。
 風景に反し奇妙な感覚に見舞われつつも、振り返る先に在るのは草原に挟まれた剥き出しの土。平らに舗装されている一本の道の上を一つの人影が歩いており、その行く先は遥か先に佇む工業的且つ、海上に栄える文明へと続いていた。
 和装を纏う影は一度此方を一瞥した後、再び左手に持つ長い杖を突きながら真っ直ぐに足を進めており、先端に輪が点いた杖の形状からも、それは先程まで追いかけていた人物と似ている。
 遠目から見ても、自らが立つ三日月か或いはおそらく勾玉状に伸びる陸地に囲まれた街並には、高層ビルらしき建物が聳え、その周りに光の線を帯びる幾つもの建造物が建ち並んでいる。しかし、決して密集している訳ではなく、お互いが適切な距離を取るように分散し、点々としている。
 蒼茫の底から昇る幾つもの巨大な柱に支えられる土台の上にも関わらず、各所では大きな木々が生い茂っているようで自然との共生も匂わせているが、深緑が触れているらしき建造物も見て取れ、虫対策は大丈夫なのかと素朴で陳腐な心配や疑問も浮かぶ。ともあれ、大都市である事に違いは無い。
 だが、第三次世界大戦から15年の復興を経ても尚、現世にて、かのような街を見掛けた事も、あまつさえ同様の都市計画の類さえ聞き及んだ事は無い。
 発展した近代的もしくは未来的な都市が放つ光からも、大勢もしくは誰かが居るかもしれないという期待を抱くが、浮かび上がる幾つもの不安要素が自らに静止を促す。
 しかし、此処で立ち往生していても何かしら状況が変わるとは思えない。背後には断崖と果てなく続いている蒼が広がるばかりで、先程包み込まれていた光の痕跡は微塵も窺えない。
 もはや、引き返す道も無かった。
 此処で飛び降りて何もかも終わりにするというのも可能だが、何故だか不思議なもので、それを踏み出す勇気は出ない。意気地無しと罵られ嗤(わら)われても、いざとなると怖いものは怖い。半ば世捨て人のような心境に浸っていたくせにと、思わず胸の内に自嘲が零れる。
 とはいえ、もはや後が無いのならそのような形ではなく、自らの好奇心を埋めて終わる方が良いだろう。
 日没も既に間近である現状からしても、心構えからしても選択肢は無い。
 覚悟を決める、とは程遠いかもしれないが諦めをつけるように今一度深呼吸をし、大きく息を吐き出すと、怯えるように止まっていた足を動かしてかの人物を追うように街へと向かう。
 周囲には誰かが居る気配も無い。動物の影すらも、鳥の羽ばたきも虫の囀りさえも聞こえない。それなのに、誰かに見られているような感覚が拭えない。
 そよ風さえも勢力を落とし、儚く舞い踊る光の粒に挟まれ、溢れる寂寞の間を小さな足音だけが点を打つ。追い掛ける人影の背中は遠く、杖を突く度に響いていた金属音も届かない。
 精神を侵食するかのような空白が長い時間に渡り流れた後、満ち引きを繰り返し、飛沫を上げる潮の音が沈黙を破り、海上都市に繋がる斜張橋(しゃちょうきょう)に差し掛かる。道は一寸の狂いも無いはしご状の線が走る石畳のように整えられ、ほんの微かな夕陽を反射するそれから横に目を逸らせば、鋼のような光沢を帯びる紺色の橋側面は淡い黄昏色に明滅している。水色の水晶のように透き通る二つの鉄塔からは同色のケーブルが伸び、それぞれが夜空を彩る星の如き煌きを纏っている。見上げれば、鉄塔の先端では淡い光が燈され、それは本紫から藤色を経て花色となり、その連鎖と変化を反復している。
 他に装飾は無く、簡素や質素とは一概に言えなくとも、決して着飾ったものではない。それこそが橋の美しさを際立たせており、橋そのものが芸術性と実用性の双方を兼ね備えた美術品と言っても過言では無い。
 奥から顔を―――表面を覗かせる街並では、光を燈す金属的な艶やかさや木目を身とする荘厳なビルが建ち、それを隣で見守るような大樹が力強くも優しさを宿す緑の葉を生い茂らせ、街の明かりを受け止めている。
 材質を金属か木材か、または双方を組み合わせたものとする各建造物の形状は角柱形や円柱形、六角柱形に球形、楕円形等々と多種多様であり、何れも橋梁と同様に蛇足的な装飾も無いが建物そのものに遊び心が注がれている印象を受ける。
 立ちはだかる主張は無いものの、其処に在るだけで言葉を必要としない無言の威厳を齎(もたら)しているが、一方で金属と光、木々―――人工物と自然の和による幻想的美しさが訪れる者に僅かながらの畏怖を与え、同時に好奇心を手招きする。
 未踏の地であり、その街に赴くには否応無く相応の緊張が全身を駆け上る。しかし、未だ見知らぬ知識や見識を得るという知的好奇心が胸中でせめぎ合い、一歩を踏み出す背中を押そうとする。
 既に、追いかけていたかの人物は橋を渡り至極当然という様相で街へと入っていった。一度此方を一瞥したあの時以来、途中でも止まる事もせず。
 あの人物が誰なのかなど勿論わからないが、この街の住民なのかもしくは関係者である可能性も考えられる。更に都合良く捉えれば、あのメールに関わる人物とも取れる。
 浮かぶのはあくまで可能性の話であり、掘り下げれば果たしてかの人物が生きている存在なのか、それとも死している存在なのかも疑わしい。自らが狂って幻覚を見ているのではないのか、これは夢ではないのか、それとも自らは既に死しており此処は死後の世界なのではないか……。
 思考は次々と頭を過ぎり悪い推測を導き出すものの、自らの腹を殴れば痛みは感じる為、少なくとも自らが生きている可能性は高いと推察される。
 思い返せば、あの和装の人物もしくは人影は、山中に突如として現れた石段で邂逅した時から此方を見ては去っている。追い返したければ、当にそういった行動を起こしている筈。だが、実際はその素振りさえもせず、意味深な視線を投じると共に去っている。
 普通なら一蹴する眉唾物のメールを受け、自らの心に従って、藁にも縋るような思いで、動き出した好奇心のままに此処までやって来た。
 相手の目的など露知らず、不可思議な現象を前にしても、ただ愚直に誘い込まれるように……。
 だからこそ、今まで下してきた決断が迷いを生み出す。
 一度自覚した認識は違和感にも似た薄気味悪さを覚え、誰かから見られているような視線と混じり合い、言葉にならない不穏が精神を取巻く。
 海上に聳(そび)える大都市は確かに発展している。眩くは無いが淡い光も燈され、立ち並ぶ建造物の数々からも街の盛んな営みも想像出来る。
 しかし、その現実が自らの足を止めさせる。
 何の音も、声も聞こえない。
 耳に届くのは飛沫の音色だけ。大きく広い車道が確保されている橋にも関わらず、車一台も、隔たれた歩道さえも誰一人として通らない。誰かが通った痕跡すらも見て取れず、振り返っても辺りを見回しても誰も居ない。
 それでも、宛ても無い身では進む他に無い。丘から此処までに至る長い時間に従い、眠りゆく黄昏は蒼黒に番を代え、上天を泳ぐ子雲は影を帯び、間も無く来たる夜を迎え彩るべく多くの煌きが顔を覗かせ天地を見守っている。
 払い切れない不穏と緊張感を抱えながら、陸地と海上都市を繋ぐ道に震える足を踏み入れると前へと進む。
 普通に一歩一歩進んでいるだけなのに、靴底から伝わる実感とは別に胸の内には妙な不安が燻る。
 橋を渡り切っても誰もおらず、ただただ淡い光を燈す建造物や街灯が並ぶ。
 初めて訪れた場所を目にする驚きと少しの嬉しさで自らを誤魔化しながら周りを見渡すものの、それ以上に不気味な静寂が喰らい尽くすように襲い掛かり、逃れる事を許さない。静けさが街を覆っている、造り出していると言っても過言では無い程に。
 そして、歩みを進めれば進める程、外からではわからなかった異質さに気付く。
 外から見た限りでは、人工的な建造物と自然が共存しているのだと思っていた。勿論、この認識は間違ってはいない。
 しかし、厳密に言えば……それは建造物と自然が一体化していると言えるものだった。
 聳え立つ高層ビルは見守り寄り添っていた大樹に侵食されたのか、それとも大樹の中にビルが立てられたのか、どちらか判然としない物、また、金属的な建造物から植物や木々が生えている物、ビルと同等に巨大な木々の幹や花の茎に付属した窓から光が零れている物、かたや木目が延々と動いている球形の建物等、異様な光景があちこちに見られる。
 誰かが居れば、異界を目にするような感覚を得られたかもしれない、しかし、誰もおらず音も無い、一切の色を帯びないが森閑(しんかん)が幻想を通り越し、底知れぬ不気味さを醸し出している。
 他にも街路では、結晶状の円筒の中に入れられた水の中を、輝く大きな桜の花が浮遊している物、更には街路樹が伸ばす枝に生い茂る葉の総てが淡い翡翠色の光を放っており、それぞれが街灯の役目を果たしている。そして、それはビルや街の光を受け止めていると思っていた大樹も同様であった。
 次々と目に飛び込む情報は自らが信じる現実とは程遠く、不思議と言うか異形の光景が続いている。
 怖気づきそうになりながらも奮い立ち、恐れる心境をひた隠しにしつつ更に歩みを進めていると、遂に待ち望んだ人や人間の姿を目にする。
 ―――だが、直面した内容はとても安堵出来るものではなく、押し寄せる感情は寧ろその逆であった。
 人々や人間の夫婦、子連れ、スーツを着用した会社員らしき人物に作業着を着用した方、更には学び舎の制服らしきものを纏う学生の姿まで様々だが……その何れもが、薄い蒼色に透き通っていた。
 彼ら彼女らは此方の存在に、異物に気付かないのか、通り過ぎる際も全く目もくれず、ぶつかりそうになっても避けようともせず、それぞれの行動に勤しんでいる。
 蒼い半透明の彼ら彼女らは、例えるならばホログラムで作られたかのようで、何かを会話する声も、お店らしき家屋からの客寄せも、作物を売る八百屋と思しき店主や店員らによる遣り取りさえも、見えはすれども聞こえない。
 奥歯をほんの少し嚙み合わせ、意図せず口内を湿らせる唾を飲む身体は駅前広場と思しき場所に差し掛かり、次第に練り歩く人口が増えていくものの、目の前で続き繰り広げられている、あまりにも異様な光景にとうとう思わず足が竦(すく)み立ち止まる。
 瞬間、此方に歩いてきている人間の男性に反応し切れず、意図せずにぶつかってしまう。だが、伴う筈の衝撃は一切訪れず、彼の身体は自らのそれを呆気無く通り過ぎる。一瞬思考が停止して眼で追い掛ける此方を他所に、人間の男性は何事も無かったかのようにそのまま街の中へと行ってしまった。
 自覚したくも無い認識が感覚となり、得体の知れぬ何かが身体を這い上がるかのように、足先から頭の頂までをなぞりよじ登っていく。
 寒くもないのに、背筋に悪寒が走り、両肩が微かに震える。
 もはや、心に渦巻く焦燥や不安、意味の不明から生ずる恐怖が絡み合いながら湧き上がり、逃れるようにしてその場から離れる。
 何処かも知れぬ場所を宛ても無く駆け回りながら彷徨っていても、はっきりとした形を持つのは己のみ。出会う半透明の者達は、誰一人として見向きもしない。多くの雑踏は音無く澄み渡り、石の床を蹴り叩く自らの足音だけが虚しく響き、心を突き刺す。
 感覚に任せて幅の広い道という道を走っていると、やがて大きな広間のような場所に出る。
 表面を平とする石畳状に舗装された地面とは違い、其処は光沢を帯びる金属質な地面にされており、広間の端々には木製のベンチが並び、四隅では街路樹がその枝に光を茂らせ、周りには結晶状の花弁を纏う、紅、蒼、水色、翠、橙等々、多種多様な色の花が咲いている。
あたかも遊具の無い、催し物が開かれる公園のようなその中央には、行き来する半透明の方々に交じり、あの和装の人物が立ち尽くしていた。
 その人物だけは実体がはっきりとしており、傍を通る方々は此方と同じくその存在に気付いていない。
 人か人間なのかはともかく、追っていた人物が其処にいる事、そして、漸く実体のある存在に出逢えた事の喜び、恐怖を発散する為か、湧き上がる八つ当たりに近い怒りからその人物へと大股で歩み寄る。先程に浮かべた悪い推測は、暴れるように脈打つ鼓動により封じられ、その顔を現せない。
 落ち着かせる呼吸と共に足を進める度、金属のような地面と靴底が心を和らげる音を奏でる。
 歩み寄った事で漸く姿を鮮明に確認し認識するが、短い黒髪を垂らし、萌葱色の和服に鉄紺色の袴に身を包み、左手にした黒い錫杖を地面に立てる相手は背中を見せたまま、視界に映る風景を焼き付けているのか、もしくは此方を拒絶しているかのように動こうとしない。
 その頭部を覆う髪は、まるで空間に穴が開いたような、光をも飲み込む程の漆黒そのもので、目にしているだけでも不思議な焦燥と不気味さ、吸い込まれるような恐れを覚える。
 重苦しい空白が数秒に渡って続いた後、我慢の限界か堪えられなかったのか、意を決し声を掛けようとする。
「……此処は、“心を忘れし者”が集う場所」
 ところが、自らの口が開くその前に、前方に立つ人物からと思しき声がそれを遮る。
 声色からして男性、それも青年かと推察される。だが、空間に通る声色は何処か重たく凍えるような冷たさを帯びている。
 独り言のように紡がれた言葉を前にして聞き返そうとするものの、途端……周囲の人々が、人間が総て消失する。兆候や予兆すらも見せず、突如として映像が途切れるかのように。
 見渡す限りには誰も居ない。彼の言葉を合図にしてなのか、あの蒼い半透明の方々は総て消え去っていた。
「そして……懸命に誰かと手を取り合い、調和たる未来を目指し、真っ直ぐに生きようとする者達が、生命が生命であろうとした世界……」
 誰に語るでもなく、紡がれた言葉の後に地面を突く錫杖の音が天地に沁み込むかの如く鳴り響く。
 すると、世界は一転した。
 辺り一面には老若男女問わぬ人々や、人間の肉体と紅い溜まり場が広がる。そのどれもが、赤黒い血に染まっていった。
 地に血に倒れ伏せる肉体は、何れも頭部からの流血が見られる他、もしくは肉体の大部分の部位を欠損し、腕や脚を斬られたか砕かれたかのように失っている。そこかしこに、胴体が荒々しく切り離されたもの、血肉を撒き散らすもの、数多の生命なき抜け殻が転がっている。血煙どころではなく、空気までをも赤黒く染めんとする程の地獄が描かれていた。
 事実、見渡す限りの世界は星月夜など考えられぬ程、鮮血の如き紅味を帯びている。
 一瞬で飛び込んできた光景に思わず心臓が飛び跳ね、息を呑み硬直する。海や草原の香り以外に鼻をつく、鉄と肉が混じる臭いが辺り一面に立ち込め、口を動かそうにも、あまりもの惨劇を前に何一つ動かせない。
「……今や心を失い、まるで狂いし信者の如く、はては人形の如く動くだけの意思なき抜け殻」
 数秒か数十秒か。混乱に塗(まみ)れる空白を破り、言葉を紡ぐ青年を見遣れば、腕先や錫杖からは血の雫が絶えず滴り、その背中は、全身は赤黒い生命の残骸に染まっていた。
「あなたは……自我無く、命じられるがままに動く傀儡か。それとも……己の正しさを信じ、真っ直ぐに生きる生命か」
 此方を認識した問い掛けなのか独り語りなのか、縛り付けるように重く、心に焼き付けるような言葉に対し口は思うように動かず、返すべき文言さえも見付からない。
 何も出来ず、何も言えぬ此方へと、青年はゆっくりと振り返りその素顔を見せる。
 光を蝕む漆黒を垂らす色白な青年の顔は、所々を血染めにしつつも男ながらも美しく整い、射抜くような目付きに宿る黒い瞳は感情を持たず、しかしその色は彼の髪と同じく、あらゆる色や光をも飲み込む程に底深く、離そうにも交錯する眼を離させない。彼の顔を認識した事によるものなのか、その姿は、あの湖上の神社にて笛を吹いていた青年と重なる。
 訳が分からず速まった動悸が煩く危険信号をかき鳴らすものの、蛇に睨まれた獲物のように、その場に繋ぎ止められた身体は言う事を聞かない。
「“生き方を定められる常世(とこよ)か”……“我が我である現世(うつしよ)か”。…………あなたの願いは……どちらでしょうか?」
 真っ直ぐに此方を見つめる彼は、明確な問いを掛けるのと同じく、空いている右手を差し伸べるかのように此方へ翳す。
 直後、突如として自らが立つ地面から音を立てて黒が噴出し、全身を覆い尽くさんと暴れ狂い吹き荒ぶ。
 音も声も景色も、何もかもをも取り込み塗り潰すかのような、実体も無い黒い何かに抗おうにもその抵抗は徒労でしかなく、手は虚空を切り、足は何も無い暗闇を騒ぎ歩く。
 懸命に逃れようと試みる身体とは対照的に、もがけばもがく程精神は虚しさに落ちていく。
 身体からは熱が消えていくように感覚が削がれていき、心に秘める小さな輝きさえも底見えぬ深淵の一部と化していく。
 やがて、絶望も、苦しみも、悲しみも、不安や好奇心さえも刈り取られるように、想い出さえも過ぎらぬ虚ろに支配された意識は、何も見えぬ黒の中へと沈んでいった……。







はじめまして、くま機士です。 駄文ではありますが、あわよくば私の描く物語が、激動する世の中で 一生懸命に生きる誰かの心を照らせれば、これほど幸せな事はありません。 もしも宜しければ応援の程、よろしくお願いいたします。