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生きるということ

まさに大荒れの空模様というヤツである。

日が暮れて薄暗くなった山がビュウビュウ、ゴウゴウと唸りを上げるが如く吹き荒れる様は鈍色の曇天とも相まって不気味ですらある。
四十を過ぎたいい歳こいたおっさんの私ですら「ママ―!」と泣き出しかねない不気味さと言ってもちっとも過言ではない。

家路へ向かう車内はドア一枚、窓一枚を隔てただけで別世界を作り出す。
暖房が効き始め、BGMは心を癒してくれる。

私はこの寒い時期に暖房の効いた車内で音楽を聴くのが好きで、それは恐らく暖房と炬燵で汗が出るくらいのなかでアイスクリームを食べたり、夏の暑い最中にクーラーをガンガンにつけて毛布を被って寝たり、或いは同じくクーラーの効いたなかで鍋をつつくなど、文明の利器を味方に外の厳しさを他人事とする行為を現代消費社会に於けるある種の縮図として捉えることができよう。

しかしよくよく考えてみれば現代に限らず、火鉢やストーブの上に置いたやかんから静かに立ち上る湯気の向こう側に見える雪景色を眺めつつ熱燗で一杯、などという日本の冬の原風景みたいなものもノスタルジーこそあれやっていることは同列にある訳で、これはもう言うなれば人間の性(さが)ということなのかもしれない。

話を戻そう。

やや効き過ぎた暖房とメロウなソウルミュージック。
これで私の家路の時間は満たされる・・・はずであった。

しかしどうだ。待てど暮せど車内はひとつも暖かくならない。

結論から言えば、現在私の愛車の暖房は絶賛故障中なのだ。
風量MAXにしたところで温風はビタ一文出てこない。

このクソ寒いさなかに、である。

実は先週末には故障に気付いて愛車をディーラーへ持って行ったのだが、交換部品の取り寄せが必要とのことで、こともあろうに一旦お持ち帰りさせられたのだ。

繰り返すが、このクソ寒いさなかに、である。

以来、違う意味で通勤地獄を味わう始末。
ハンドルを持つ手は悴み、吐く息は白い。

BGMは何を聴いても入ってこない。


満たされないばかりかテンションはダダ下がりの一方通行と言う他ない。
当然帰宅する頃には生命の危険を感じている為、帰宅するなり風呂へと一直線に向かう。
本能的、衝動的に動かざるを得ない。

何しろとっくにカラータイマーは激しく点滅しているのだ。

これでは文明の利器を味方に外の厳しさを他人事にする前に、パンツ一丁でその外へ放り出されたのと同じではないか。
しかもオートロックで。
このような辱めと苦痛を与える日〇自動車へは法的措置も辞さない覚悟で追及していく所存である。
営業担当氏と次に会うのは法廷かもしれない。

ひとまず湯舟に浸かり、冷え切った体をじんわりと温める。
目を閉じてさっきまでの厳しい寒さとは一体何だったのかと自問自答する。
悠久の時を経て人類はかくも文明的な生活を営む。しかし人間は結局いつも自然の前では無力である。
先達の苦労はいかほどのものであったか。火の無い時代の人々はいかにしてこの寒さを凌いだのか。
恐らくは冬が来る度に恐怖を感じていたのではないか。冬になると憂鬱になるのは、ひょっとするとこの時代の人々が抱えていた恐怖の名残なのかもしれない。

そんな苦労や恐怖に比べれば、ついさっきまで私が感じていた寒さなど生温い。いくら寒くとも家に帰れば風呂があるではないか。漲る生命を感じられるではないか。

そして風呂上りのビール。
一気に飲み干す。

「嗚呼、俺、生きとるわ」

生の実感を呼び戻す風呂とビール。
私はなんと些細なことを気にしていたのであろうか。
思わず「ちっさ! 俺の心ちっさ!」と叫んだくらいである。

皮肉なことに、暖房が壊れたことで生命の尊さ、果ては人類の進化にまで思いを馳せることができた。むしろ有難いことなのであろうか。
このまま暖房が壊れたままであれば、私は思考の末にこの先何かを達観するのかもしれない。

快適さをとるのか、それとも思考か。

人間は利便さ、快適さを得る度に怠惰になってきた生き物でもある。
快適さと引き換えに人間として大切なことを失うのもまた事実。

迷うことは何もなかった。

そう、私は快適さをとるのだ。


結局私はちっさい人間なのであった。



1週間程度だったと思うが、違う意味で出社拒否したかった。

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