認知症を有する人が環境と共に在ること①

52間の縁側の「いしいさん家」への見学

2023年4月上旬、曇り空のすっきりしないお天気の中、千葉県八千代市にある通所介護施設「いしいさん家」にお邪魔した。
高齢者・子ども・障がい者様々な人を受け入れる宅幼老所として開設された「いしいさん家」については、かれこれ3年以上前から知人伝いに話を聞いたり、SNSなどメディアで情報を見かけたりと気になる場所だった。特に、2022年12月に開所された「52間の縁側」は、いわゆる”介護施設”には見えない、圧巻のながーい縁側で建築としての魅力もたっぷり、しばしば建築系雑誌や記事に取り上げられている。認知症を有する人とその人を取り巻く環境に関する研究をライフワークにする私にとって、一度行ってみたい場所の一つだった。

「52間の縁側」と「古民家」の対比

主に通所施設として使用されている「52間の縁側」の建物に隣接して、一軒の古民家がある。そこは小規模多機能型で宿泊にも利用できるよう借り上げているそうで、懐かしい祖父母の家のたたずまい。瓦屋根に昔ながらの上がり框、段差のある敷居、低い天井、2階へ上がる狭く急な階段、一段下がったお勝手。立派な神棚や仏間もある。
「52間の縁側」は、お年寄りもこどももいてそこで過ごす人たちの活気があり、開かれた空間が多く賑やかさが空間全体に行きわたるのか、その「人気(ひとけ)」がどこにいても感じられる「動」の世界だ。対して、古民家の方は、訪問時に人がいなかったせいかもしれないが、とても静かで渡り廊下をほんの数メートル歩いて場所を移しただけなのに、異世界にきたような雰囲気の違いがある。古い家特有のずっしりとした建物の構造や、壁やいたるところに刻まれた歳月がそうした雰囲気を作り出すのかもしれない。人によって、また同じ人でもその時の気分や状況によって、心地よくいられる場所に求めるものは異なるだろう。その多様なニーズに応えうる、空間の選択肢が用意されている点が印象的だった。
認知症の人のための小規模ユニット向けの環境評価ツールの一つに、The Environmental Assessment Tool- Higher Care(R. Fleming, 2017)がある。オーストラリアで開発され、物理的環境をヘルスケアの専門職でない人でも評価できるよう設計されている。その項目の一つに、「評価対象の空間がいくつの特徴を有しているか」を問うものがある。多様な特徴を有しているエリアがあった方が評価は高くなる。
いしいさん家には、いくつもの特徴を含めることができる空間が多数用意されており、その空間を使用する人がいろいろな使い方をしてくれることを待っているような場所だ。日本は土地の専有面積が少ないためか、一つの空間を多目的に使えるようにデザインされていることが多い。高齢者向けの施設や住まいでも同様で、特にダイニング(食事を食べる部屋)とリビング(くつろぐ部屋)は分けていないことが多い。どうもこの点は欧米での居住空間のデザイン指向とは異なるように思われる。
リビング、ダイニング、キッチン、ゲストルーム、、、などなど役割の決まった部屋が何部屋もある王宮のような環境を目指すのか、それとも一つの空間に様々な役割を持たせる日本家屋のような環境を目指すのか、どちらがいいのだろうか。その良し悪しの判断には、住む人のこれまでの生活体験や身体活動に染み付いた馴染みある環境も考慮しなければならないのかもしれない。

○The Environmental Assessment Tool- Higher Careについて

リスクの軽減を最優先しない

リスクの軽減と居住者の活動の自由とのバランスは、病院や高齢者施設など身体活動性が低かったり、傷病を抱えていたりする人が利用する場所での、永遠の課題といえるだろう。
いしいさん家には施錠されているところがほとんどない。縁側では長屋のように並ぶ各エリア間を、子どもも認知症のある人も自由に行き来する。古民家には敷居も階段もある。そこにいる人たちは、みんな思い思い好きな場所で過ごせるようにしている。その分、人的環境も充実させており、利用者ではないボランティアスタッフやケアスタッフ(そして時には利用者同士で)がそれぞれの居場所から見えるところ、ほんの少しのぞけば声がかけられるところに点在している。
居住者の活動を制限せずに、ある程度の安全を確保する上で、建物の構造、デザインなどハード面の環境と、人や運営などソフト面の環境との相補性をみながら整備することが大切だと改めて思わされる。

人と人との距離

COVID-19感染症流行に伴って、感染拡大予防のためにソーシャルディスタンスをとることが推奨された。一般の会社、店などから、教育現場、そして医療・福祉現場はより一層の注意を払わざるをえない状況だった。今でもその尾をひいている。こうした変革で、人と人との距離が離れ、それが当たり前に思うようになった。映像記録などでいわゆる「コロナ前」のお祭りや、フェスや、竹下通りなど、人でごった返す場面をみると、違和感を覚える人も多いのではないだろうか。私はもう、レジの列で前の人の後ろにぴったりとくっつくように並ぶことができない。
「いしいさん家」で久々に、人と人との距離が近いなと感じた。3人掛けくらいの手ごろなソファに、利用者さんとスタッフが並んで座っていたり。1つの食卓を4人、6人で囲んだり。ソーシャルディスタンスに慣れ切った自分は、当たり前だったはずの距離感に少し戸惑う気持ちがあったのも正直なところだ。認知症のある入居者にとっては、当たり前の距離感に安心やなじみにつながるのかもしれない。

におい

豊かな知覚刺激があることも、認知症を有する人にとっての物理的環境において重要な点である。みる、かぐ、さわる、きく、あじわうといった五感を通して得られる刺激は、多すぎれば混乱や不快につながり、少なすぎれば豊かな感情や体験を生起する手がかりが減ってしまう。
特に「におい」は、文化的に特有な好みや管理の仕方が存在するように思われる。たとえば、見知らぬ土地の駅に降り立ったときに、その街のにおいを感じることがある。自分の地元近く、千葉県銚子市は醤油工場があることで有名なまちであり、初めて銚子駅に着いた人は「しょうゆのにおいがする!」と驚かれる。私たちが海外に行くと、甘いお菓子や油のにおい、花のにおい、香水や香料、香辛料などのにおいに異国情緒を感じるものだ。
さらに、においを感じることではなく、においをさせないことにも文化的な価値観があるのではないだろうか。日本の高齢者向けの施設や住まい、病院では、度々「臭気」への配慮が聞かれる。住居などは排泄や人のにおいがしやすく、ひと昔前の高齢者施設では独特のにおいが気になることも多かった。これらの不快なにおいをさせないように、消臭に力を入れることが重視されている。一方で、環境評価ツールから推測するに、海外では不快なにおいの消臭よりも「いい香り」を感じさせる方に注力される傾向があるようだ。
この点については、今後海外の施設を訪問したり、ヒアリングをさせてもらったりして確認し、海外の施設管理者と意見交換してみたい。


「居させられている」と「居る」の違い

私の研究の原点は、介護老人保健施設での看護実習と卒業研究のためのデータ収集で見聞きしたことだ。10数年前のことだが、今でも鮮明に覚えていることがある。
発語がほとんどないくらいの重度の認知症を有していたある女性は、日中の数時間をデイルームで車椅子に座り、ずっと同じ席にいた。最初はその方が「居させられている」のか「居る」のかわからなかった。本人の意思や意向が反映された居方なのかが判別できなかったのだ。しばらく日常生活援助をしながら参加観察していると、その方が「居る」ときが確かにあることがわかってきた。
その「居させられている」と「居る」の境目は何なのか、それ以来ずっと考えている。一つはその人が環境と分断されない存在であることが「みえてくる」というこちら側の見方の転換が必要なのだろうと思う。
その点「いしいさん家」では、「居る」ようにみえる方が多かったように思う。それも、個別の深いかかわりがなかった、つまりこちら側の見方の転換は求められなかったのにだ。その人を取り巻く環境の在り方次第で、ケア専門職としての役割や態度、みる技術がなくても、「居させられている」と「居る」の違いを読み取れるかもしれない。主体としてそこに在ることを何から捉えるか、これからも考えていきたい。

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