北海学園文学会ウェブエッセイ㉔「キリエのうた」

 レポのような感想のようなものなので一応ネタバレ注意。

 先日ようやく『キリエのうた』を観に行くことができた。
 友人と待ち合わせして映画館に。平日昼前だったため映画館は人が少なく空いていた。チケットを購入してエスカレーターに乗っているとき、ふつふつと楽しみな感情が湧いて出た。ぐるぐるとめぐるそれに嬉しくなって「やばいめっちゃ楽しみになってきた」と友人に言うと、「毎回なるよね」と。慣れないものである。
 席に座って広告を見つつぼーっとしていたのだが、いつもより長いように感じた。単純に席に着くのが早かったかもしれないし、久々だったせいかもしれない。そうしていると、なぜだか緊張していることに気づいた。初めてのことで自分でも訳が分からなかった。ただ、本当に心臓がギュッとなってそわそわしていたのだ。緊張が取れないままスクリーンは映画予告を映しはじめていた。

 いよいよ本編が始まった。まっしろな雪景色に路花(るか)と真緒里(まおり)が小さく映っている。たしか帯広でのロケ撮影したシーンだろうか、なんて事前に仕入れた情報を思い出しながら世界観にのめりこんでいった。BGMはキリエの歌声だった。
 公開前に予習として原作を読んでいたのだが、一度しか読んでいないせいか読解力のせいか、物語の難解さか、時系列や人物が複雑だという感想を持っていた。そして映画を観ればこれは完成するのかもしれないとも思っていた。岩井俊二監督作品はこれが初めてだった。
 映画の流れはおおむね原作通りだった。ところどころカットされている描写もあったが、たぶん尺の問題だと思う。それでも上映時間は178分だ。個人的には真緒里がなぜ実家を出たいのか、という描写で原作だとより強い嫌悪感のような意志を感じた。決して映画の描写が足りないというわけでなく、ただ媒体の違いや解釈の問題だと思われる。
 物語の主人公ともいえる路花もとい、キリエ。彼女がその心情を声に出すことはほとんどなく、こちらの解釈にゆだねられていることだろう。キリエを名乗っている現在もどこか幼さを残して、純粋なやさしさを感じさせるかわいらしさがあるひとだ。それでいて強か。彼女の歌は泣き声にも叫び声にも聞こえる。この物語では登場人物の人生を追って、それぞれが背負うものを表現されているが、その主軸ともいえる存在が彼女だろう。キリエは、多分、救いなのだと思う。
 真緒里の家庭教師として登場する潮見夏彦(なつひこ)。路花の兄という彼は、大きな罪悪感を背負っていた。子供を宿したフィアンセを震災で喪ったことだ。このフィアンセが路花の姉である希(きりえ)である。二人が出会って子供を宿して、幸せになるのだと希は信じていただろうし、夏彦も心を決めていただろう。それを傍観していた身としては、「夏彦が罪を背負うまでのカウントダウン」のように思えて心が辛かった。
 潮見夏彦を目的に観に行ったので解釈の偏りがあるのが大変申し訳ない。悔しい。
 震災のシーン。地震の描写が長く生々しく、ただただ恐怖した。その対比であるかのように、津波が襲いかかる描写は神話的、神秘的だった。明るく陽が差すその画面は、恐ろしいものが待っているとは思えなかった。そして、ラストにキリエも参加しているフェスのシーン。警察の無線がノイズのように混じり合うのがなんとも惹かれた。途中からカメラワークがライブ映像のそれになることも相まって、没入感と現実が同時にやってきて面白い体験をした。この後に真緒里のラストシーンがある。白む画面が起こっている事実を美しく昇華させていた。
 まだまだ語れるところはあるが記憶が追い付いてないのでこの辺で。ラストシーンやキリエの保護のところを見てぼんやりと「法は残酷だ」と思っていたが、逆にとらえればその残酷さがあってこそこういった物語が生まれるのだな、とも思える。
 原作を読み返したらまた新たな発見があるかもしれない。現在友人に貸しているところだが。今すぐにでももう一度観に行きたい。キリスト教の知識があればもっと面白いことだろう。

ゆうたろう

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