日蓮正宗 教義の問題

日蓮正宗は、先に見た通り、「日蓮本仏論」を教義に内包し、「唯受一人血脈相承」を主張する宗派である。

「日蓮聖人こそが釈迦仏をも教導した根本の仏であり、釈迦仏には、もはやこの乱世を救う力は無い」とし、自宗以外の宗教団体を全て「邪宗」と断じる。
個人的には、かなり問題のある教義を抱えた宗派だと思っている。

もっとも、どんな内容の教義を掲げていようが、何を信じるかは個人の自由であり、本来なら、赤の他人がどうこう言う問題ではないのかもしれない。

私の場合は、身内や知人に正宗・創価関係者が多く、他人事ではなかったという事情がある。

過去に何度か説得を試みたことがあるが、自分が力不足だったということもあり、いずれの場合もただ時間を浪費しただけで終わってしまった。

それはともかくとして、この宗派の場合、決して他人事では済まされない問題がある。日蓮正宗の教義は、本人だけでなく、周囲の人間を少なからず巻き込む構造を内包している。それが時に深刻な事態を招きかねないと考える。

日本人は、江戸幕府の政策の名残で、当人の信仰心とは別に、形の上では、いずれかの仏教系寺院に所属している人が少なくない。言い換えば、日本人の大半は、家系的に仏教系の菩提寺と繋がりがあり、当人が亡くなれば、遺骨をそこに納めることになる。

ここでもしその菩提寺が正宗系の寺院でなければ、日蓮正宗にとっては、いずれも「邪宗」の徒であり、要改宗・改心(「折伏」)の対象となる。実際に、未入信の人を正宗に勧誘することを、正宗では「折伏」と呼称し、その勧誘された人が改めて入信する場合は、僧侶(住職クラスの僧侶)が「改宗」の儀式を執り行うことになる。ここには、「正宗以外の宗教団体と繋がりを断たずにいることは(=正宗に未入信のままでいることは)悪であり、不幸・災いの根本原因である」という考え方が根底にある。

加えて、正宗の教義は、先に見てきた通り、客観性には重きを置かない。信徒となった者は、宗門へのただひたすら純粋で、強い「信」が求められる。

正宗には、真面目で実直な人達が少なくない。だが、そういう人達が、宗門の掲げる教義に疑念を抱くことを放棄して、無理に信を貫こうとした場合に何が起こるか。

実際に、周囲と軋轢を起こし、人間関係を悪化させてしまった人も居る。中には、奥さんから離婚を言い渡され、子供と一緒に出て行かれてしまったケースもある。

繰り返しになるが、彼らにとって、未入信は「悪」であり、その「悪」を放置し、黙認することもまた「悪」なのである。

仮に、自分自身は、そういう宗教団体とは距離を置きたいと考えていたとしても、身内や周辺に、上記のような考えに囚われた人が居れば、嫌でもトラブルに巻き込まれる可能性もある。

過去には、創価や顕正会の強引な勧誘活動が問題を引き起こして、世間の耳目を集めることがあった。それは単に、創価や顕正会に過激な傾向のある人が集まるからではなく、元を辿れば、生みの親である日蓮正宗の教義が上記のような構造を抱えているからでもある。

昨年の夏に、池井戸潤氏の小説『ハヤブサ消防団』がドラマ化された。
ドラマの中で、中村倫也演じる主人公が、カルト宗教に嵌まってしまったヒロインを説得するシーンがある。
頑なに耳を塞ごうとするヒロインに対して、彼は涙を流しながら「今のあなたは、全然幸せそうに見えない」と訴えていた。

このシーンを見たとき、私の話に聞く耳を持たなかった正宗の人達を思い出してしまった。

確かに、傍から見て、彼らは幸せそうには見えなかった。結局は時間を浪費しただけだったとは言え、因縁浅からぬ人達を、あのまま放置したままで、果たして本当に良かったのだろうか。

幸せか幸せでないかは自分が決めるというのであれば、それは否定しないが、「日蓮正宗に入信しなければ、また、入信させなければ不幸になる」という教義は害でしかないし、それは日蓮聖人とも法華経とも、ましては仏教とも無関係のドグマである。

真面目で実直な彼らを、そんなドグマで雁字搦めに縛り付けるのは、せめてやめてあげて欲しいと切に思う。

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