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ヒカリノアトリエ

“今 僕らの目の前で起こってることを
楽観も悲観もなく ちゃんとつかまえたら 足元に落とした視線を上にあげ 胸を張れ!”―

『SUPERMARKET FANTASY』の一曲目に収録された「終末のコンフィデンスソング」の中の一節。「ヒカリノアトリエ」を聴いてそれが思い浮かんだ。

アコーディオンとブラスに彩られたマーチングのリズムに乗せて足並み良く曲は進んでく。柔らかな優しい日差しが誰の元にも注ぐようなそんな印象を抱かせる曲だ。現在の日本の毎朝を彩る曲なのだからそれもそのはず。けれどCDを手にし、仕事帰りに車内で口ずさむうちに、最初のそれとは別の、もっと強かな印象を持った。

“過去は消えず 未来は読めず 不安が付きまとう
だけど明日を変えていくんなら今 今だけがここにある”

「くるみ」もそうであるように、時にミスチルは残酷なまでに当たり前のことを歌う。これは個人的な印象なので捉え方はそれぞれにあるだろう。けれど至極当然過ぎて何も返せなくなるような本当に「真理」だけを言葉にする。“出逢いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える”といったように、そんなこと誰もわかっているし、それに変わる言葉なんてない。だけどメロディーに乗った瞬間に、その言葉たちは言葉だけを受け取った時とはまた違った意味を持つように感じる。聴いてる各々が真理に至るまでを自由に想像できるようなスペースを広げてくれる。

この曲にも「本当の曲の真意は2番の歌詞に表れる」ミスチルの特性がよく表れている。メディア等で流れ易い1番は、より大きなマスに向けた想像の余地が広く持たせられるような言葉が並んでおり、2番については作家の真意がより濃くなる。それは曲が2番に入っても飽きさせないための工夫とも過去に桜井さんは話してたけど、個人的にはやはり2番の歌詞に胸打たれることが多い。毎日感情の通わない口先だけのコミュニケーションを繰り返し、年々、年が明けて暮れるスピードの速さを感じては個人の感情をどこかに置いてけぼりにしてる。もしくは抑え込んでる印象が拭えずに日々を過ごしてる。そんなもん国民の過半数はそうやって波風立たぬよう我慢して生活してんだって言い聞かせてんだけど、恥ずかしいけど「自分らしさ」とか「生きてる意味」なんてことを未だ考えてしまう。日々に買い慣らされるうち大事なものを見失ってんじゃないかって気になる。それが自分自身でそれが生きることなんだと言われればそれまでなんだけど。

だからこそ、そんな毎日に沁みる。

優しい柔らかな印象だけど、歌詞はものすごく切実だと感じた。過去も明日もここにはない。ここにあるのは「今」だけ。

その「今」を自分はどう変えていくのか。こんな毎日をもう少しでもいい「明日」にするために、今の自分に出来ることは何か?それをすごく試されてる気がした。優しく諭すでも強く励ますでもない。ただ物事の「真理」を示すだけ。「明日」のために「今」すべきことは何か―。それが自分がある種残酷と感じた所以。

けれど最後のサビ前に、それまで踏ん張って前を向き、足並み揃えて歩いてきた主人公もふと息をつき足取りを弱めてしまう。ただひたむきに前を見てたらあえるかなぁ…
ふと、その踏ん張りを、前向きさを、疑ってみたりする。自分がどんなに前を向こうとしても、自分一人だけじゃどうにもできないことの方が多いことに気付いては。そしてそんな一生懸命さが馬鹿馬鹿しく思えてきてしまう。

生きることは「夢見ること」がすべてじゃないし「愛を感じること」がすべてでもない。何かを感じることが怖くて、悲しみや苦しみを感じることが怖くて、きっと上手く笑えなくなった人だっている。生きてるから何となく生きてしまってる人。そうやってあらゆるアンテナを仕舞ってしまえば傷つかずに生きて行ける。
この曲は決して「夢を叶えること」や「愛を手にすること」が生きることの目的だって歌われているわけではないと思う。それらのメタファーとして用いられてる「虹」を見つけることがゴールじゃない。大袈裟に夢を追わずとも、愛を手にせずとも、生きているだけで素敵だ。恐らく、何となくで生きれている人などいないから。毎日色んなことがあってもなくても、人に気を遣うばかりで傷付かないよう蓋をし、知らず知らず出来た敵や味方と対峙しながら、自分を信じたり疑ったりしながら価値を磨き、見えない何かと戦ってる。生きることに精一杯でいる。それだけで充分素敵じゃんって言ってくれてる気がする。

だからこそ最後のサビでの転調は、もう一度顔を上げ歩き出す主人公(=聴き手)を連想させる。そしてここまで何とか前を向こうと歩いてきた主人公に対して、その過程が既に素晴らしいものなんだよ(=虹はもう『ここ』にある)と歌ってくれることで、これまでの自分自身をより少し好きになれる。そしてそれが最初のサビで登場する「優しすぎる嘘」なのかもしれないことに気付かされる。

揺るぎようの無い「今」。物事の本質や真理だけを言い当てるものとして、冒頭の「終末~」の歌詞を挙げたのだけれど、その特色の中でまた違った意味を持つものとして特筆すべきなのがCメロ。

“遥か遠く地平線の奥の方から
心地好い風がそのヒカリ運んで
僕らを包んでく”

「ハル」にあるような、おそらく桜井さんのイメージの中の風景をそのまま言葉にしたものだと思う。イメージの翼で大空を飛んでいくように。物事の真理を突きつけられた後にまた違う意味で聴き手の想像力を問われるような歌詞。それまで主人公の中に芽生えてた「闇に飲まれぬためのヒカリ」は、自分の中から湧いたものではなく、どこか自分以外の別の場所から風に乗って運ばれてきたものと解る。更に興味深いのが「僕」ではなく「僕ら」となっていること。それまで登場人物は主人公の一人称のみだったのだけれど、ここでの「僕ら」は歌い手と聴き手なのか、主人公ともう一人の誰かなのか、それとも世界中にいる同じような人を指して「僕ら」なのか。個人的には特定の人を指すものではなく、同じように生きる大衆の「僕ら」なのだと思うけど(ライブのお客さんとか)きっと正解なんてないから自由に想像できる。またそういった歌詞を散りばめてくれることに、聴き手はまだ信用されているなとも感じれるから嬉しくなる。

いつも心のポケットに忍ばせて、必要な時にそっと取り出せるような、そんな曲だと思う。決して仰々しくはなく、ひたすらに強い光を放つわけではないけれど、蛍光灯の明かりのような、携帯カイロの暖かさのような、身近にあってくれるだけで助かるような、そんな歌が、実は今最も必要なものかもしれない。

(2017年1月13日掲載記事より転載)

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