正しければ何しても良い? 〜解説「ミズミズアリ」〜

正しければ何をしても良い? 〜創作は戦いである〜

前回投稿したショートストーリー「ミズミズアリ」は、
「水々しいアリ」という言葉からイメージを広げて作りました。
ミズミズアリが、君子の忘れていた思いを
みずみずしく甦らせるストーリーです。

書きながら出て来たのが、
「正しければ何をしても良いのだろうか」
という思いでした。

こんな言葉をたまに聞きます。

子供の頃、親の言っていることに反発してきた。
でも大人になってみたら、正しかったな、と思う。

これは、とても危険だな、と思います。
なぜなら、「正しければ強制(どんな伝え方を)しても良い」という考えが見えてくるからです。

弾き始めの下手な時、先生に毎日酷く叱られた。
練習を続けてなんとか綺麗な音が出せるようにはなった。
先生からは叱られなくなり、
よく頑張ったね、厳しい練習のおかげね、とお母さんからも言われた。

「好き」が死んでしまったの。

「好き」が死んでしまうやり方は、結果が出たとしても暴力です。
私はそれを、認めることはできません。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、これが発展すると虐待になります。
(教育虐待など)

ちなみに私は子供の頃、自分は勉強が嫌いなんだ、と思っていました。
しかし、大人になり通信制の高校に入った時、勉強が好きなんだと気づきました。
色んなことを知っていくのが楽しかったのです。
伝え方一つで、「好き」は簡単に死んでしまうのです。

当たり前な価値観を静かに揺るがす、そんな作品を作りたい。
私にとって創作は、「戦い」なのです。

おまけ 〜「好き」と世界を繋ぎたい〜

君子にとっては楽しくても、下手なヴァイオリンの音を聞くのは辛いです。
君子の「好き」と世界をどう繋ごう、と考えた結果、以下の結びになりました。

君子のバイオリンの音はベランダに干された五線譜に吸い込まれ、
水々しい音となり、世界中に降り注いだ。

「好き」が潰されない世界を願って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?