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【化かされた】仮面ライダーギーツ感想【ハイライト】

再会Ⅰ:祠と絵馬

 先月9日、『THE 仮面ライダー展』の仙台会場に遊びに行ってきました。
 順路の最後に、ブーストマークⅨレイズバックルに似た石像とそれが鎮座する祠、デザイアグランプリ(DGP)参加者たちの願いが描かれた絵馬の展示がありました。

 慟哭編の途中、長いファン歴の中で初めてシリーズの視聴を中断してしまった僕としては、その展示がどのように、どのくらい胸に響くものであるかを、そのときは認識することができずにいました。

 その祠が、ごく限られたキャラクターたちが英寿を、英寿の成し遂げたことを忘れないためのものであるということを知ったのは、その1か月半後、1月も後半に差し掛かるというときでした。

 そんな『ギーツ』視聴への再エントリーの感想を書き置いておきたいなと、この記事を立ち上げました。


再会Ⅱ:煮え切らなさ

 強く願えば理想は叶う。
 求めれば幸せは手に入る(世界中の幸せの総量とは関係なく)。
 それに気づき、それを信じた参加者が力を合わせ、未来人に見世物として弄ばれている目下の惨状を打ち砕く。

 ……最後まで完走した今、ギーツはそういう命題を最後までしっかり貫いた芯のある物語だったんだとわかるんですが、慟哭編、つまりジャマトグランプリ(JGP)の開始とともに、展開に対する煮え切らなさのようなものを感じてしまい、視聴を休止しました(『ドンブラザーズ』の作り込みの深さやトンチキさ、『キングオージャー』の傑作感も、ライダーへの心の比重を減らす形で影響していたと思います)。

 視聴をリタイアしたときは多分DGP参加者と一緒で、土台としてのDGPの存在や、そこに立脚したストーリー展開に固執してしまっていたんだと思います。JGPが始まったときには、「この作品は何がしたいのかわからない」というひねた見方になってしまって、その「わからなさ」こそが肝であるということに気づけなかった。

 ただ、そこで若干の失速をはらんででもじっくり煮込んだスープが、後々の味わいをより深めていったわけですが。


再会Ⅲ:ギーツの開拓

 視聴を再開して、気に入ったところや、気づいたことがいろいろあります。
 制作サイドが実際そういうつもりだったか、狙いがあったかはわかりませんが。

章分けの明確化によるマンネリ回避

 慟哭編、慕情編といったように明確に章を分けて、それを視聴者にも明示したことで、「これは今ジャマトという謎の存在を深堀りしたり、アルキメデルや大智の変化を見届ける章なんだな」と見どころを据えることができたり、「景和がついに闇落ちしちゃったけど、じゃあ次の章ではきっとこれを乗り越えて覚醒した景和を見れるんだろうな」という(あくまで推察とはいえ)いい意味での先読みができることで、物語のメリハリが感じやすく、例えば『リバイス』の大二のときのようにいつまでも帰ってこない不安のようなものは少なく済んだような気がします。
 あくまで体感ですが。

推しへの歪な愛情

 これはもう、なんというか、ほんっとうにスパイシーな料理をしてくれたなあと。

 ケケラは景和に「本物の仮面ライダーになってほしい」と願っていましたが、その定義が景和のそれとは大きくかけ離れたものであり、それを強いるためのテコ入れも非道なものでした。
 悲しき涙を仮面で隠す戦士。SNSでこのシーンに対して「なんて奴だ」とライダーファンが盛り上がっていたのを横目に見ていましたが、でも一方で、近年のライダーの在り方を昭和や平成のそれと比べて論じたり批判したりする声が(一部では過剰に)上がっていたのもまた同じ界隈からであり……もし、それに対するカウンターだとしたら、なかなかパンチのある描写だったように思います。

 ベロバの推しは(ああ見えても)あくまでバッファだったと思うんですが、「不幸が似合う」「不幸な姿を見せて欲しい」という歪んだ推し方で、バッファはそれに翻弄されてきました。推しに幸せになってほしいのが多くの場合だろうとは思いつつ、でも確かに不幸が似合う推しっているなあ……と思うと、実力行使しているベロバそのものとはいわないまでも、現実世界に通ずる心理でもあるのかなと思いました。

 自らの感動を求めるオーソドックスな推し活に見えるも、実際は命の概念を全く異にする未来人ならではの感動コンプレックスがあったジーンは、理解の末に推し自身が見出す未来を見届けることに……これは鈴木福くんの配役にふさわしいな、ひどいことしなくてよかったな、と安心しました。

 また、見出しとは若干ずれますが、運営サイドの執念や各々の価値観に関しても、オーディエンスに取り入るようなコンテンツメイキングをせざるを得ない皮肉さであったり、裏で糸を引くスポンサーの存在であったりなど、まあ描くとしたらそういう側面にはなるんでしょうが、実際にそれを描き、なおかつその過程でキャラクターたちに与えたセリフや観念は、個人的にはこれもまたよく攻めたものだったように感じます。

ちゃんと謝る

 これ、ちょっとしたことかもしれませんが、今までの作品ではあんまり見られない、新鮮に思えた描写でした。

 象徴的なのは景和⇔道長、祢音⇔光聖&伊瑠美あたりだと思いますが、なにが悪かったのかをちゃんと認識して、しっかり頭を下げて謝って、許して、和解して、その先は協力関係となりました。

『ゼロワン』で天津垓がさんざんな立ち回りで人とヒューマギアの関係性を搔き乱した末、終盤や映画ではしれっとライダーたちと共闘していましたが、僕は垓の罪をなんなら今でも許してないです(英寿が「罪を憎んで人を憎まず」と言ったように、キャラを憎むことは一旦やめましたが……)。
 先の例でいうところの光聖・伊瑠美なんかは特になかなかひどいこともしてきたので、途中で和解したとて視聴者的には「えーそうー?」と思ってしまう可能性も全然あると思うのですが、少なくとも僕は和解の仕方がとても丁寧だったおかげで、親子共々ちゃんと好きになれました(言うまでもなくギャーゴへの変身はフックとしてめちゃくちゃでかかったですが)。

日曜朝への挑戦

 これもまたかなり目を見張りました。日曜朝という時間帯や視聴者層に対し、できうるアプローチの限界というか、その裾野をまた広げたような感じが。

 亡き娘の身代わりに作られた人間である祢音、自らを肥料に差し出すアルキメデル、ジャマト化された挙句討伐される沙羅、その相手として巻き込まれる道長……。
 確かに近年でも、ただ単にハードな設定や描写というのはありました。が、それらと『ギーツ』が異なるのは、比較的感情移入がしやすい点(=ガワ、視覚的なハードというよりも、内面、共感性のハード)にあるのかなと思います。
 まだ現実には存在しない自立型AIロボットや、悪魔の血を引いた家族など、そもそものベースがやや非現実的なために心のシナジーが生まれにくい歯がゆさというのは、視聴者なら大なり小なりどこかしらで感じたことがあるんじゃないでしょうか。

『ギーツ』ではDGPという存在がSFなだけで、それに巻き込まれる登場人物たちの素性や彼らの求める幸せ、ないし彼らに降りかかった不幸は極めて視聴者世界に近いものだったと思います。
 であればこそ、英寿のカリスマ性や強さが引き立ったのだと思いますし。


再会F:スターのときめき

 総じて感じたことは、共通して「作り方が丁寧」だったということでしょうか。

 映画も見ましたが、TVがそうだった分映画はどちらかというと補完的で、シビアな物語をしっかり見守ってきたTV視聴者オーディエンスへのボーナスステージのような気分で観ることができました。
 ギーツエクストラ・パンクジャックでの補い方も見事。戦いの痕跡を隠滅したりドライバーやIDコアを管理したりする運営の仕事の様子には『イカゲーム』っぽさを感じました。あれもこういうライダーをやる以上、無視できない作品だったのかなと。
 第1話『黎明F』も今もう一度観てみるとまた新しい視点で観られるんでしょうね。

『バトロワ』は龍騎見たさで視聴済みですが、うーん、やっぱあの景和の悪魔ってブジンソードと関係あんのかな〜??笑
 最終回でも流れた『Change my future』然り、OP『Trust・Last』然り、音楽ワークも天晴でした。倖田來未と湘南乃風、オタクにとってはどうにも日差しが強すぎると最初は思ったものですが、すっかりライダーとはマブの湘南乃風による安心感と盛り上がり、そしてその中に君臨する絶対的な歌の王のようにも、はたまたライダーたちを駆り立てるディーヴァのようにも聞こえる倖田來未のゴージャスながら繊細な歌声。結果論かもですが、完璧な組み合わせでした。

 ギーツ視聴再開に至った理由は知人の勧めや評判を受けての事でもありましたが、あとは最新作『ガッチャード』がどうやらなかなか面白いらしい、というのもありまして。
 もちろんガッチャードは楽しみになりましたが、それよりも思った以上に良かったギーツに、今はもう少し浸っていそうな気がします……。
(今年は『ゲイザー』の配信も残されていますしね。ニラムはキャラも変身ポーズも俳優さんの芝居もめっちゃ好きなんですよ。)

 まさか視聴を途中であきらめたギーツが、令和ライダーで一番膝を打った作品になるとは。

 最後に神様になった仮面ライダーは初めてではありません。その先例の彼のように、またふらりとオーディエンスの前に姿を現し、その茶目っ気と文句のつけようのない強さで、スターのときめきを見せつけてくれたらなと、静かに願っています。

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