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#51「境界線」

 24時間テレビを観ていた。

 なんやかんやで、これは毎年観ている。
 ネットニュースやSNSなどで囁かれているように、今の世の中における24時間テレビの存在意義や、障がい者へのスポットの当て方、チャリティ企画なのに大きなお金が動いている(であろうとされている)矛盾、感動の押し売りとすら蔑まれてしまうスペシャルドラマなどなど、不穏な側面というのは一応やはり気にはなっている。
 とはいえ、この番組のいいところは、これ以上ないくらい「夏休みっぽさ」を感じさせてくれるところにあると僕は思っている。特に、放送時期が大概8月後半なので、長い夏休みの終わりにある物悲しさとシンクロして、残暑の和らぐ夕涼みの独特な雰囲気を毎年連れてきてくれるんである。
 黄色いTシャツを着た芸能人やアナウンサーが、夜も朝も絶えずテレビを彩る様子も、いかにも特別番組という感じがしてとても良い。
 合間に流れるチャリティ協賛企業のCMもまた然りだ。新春のお慶びを申し上げるCMと同じ、季節の風物詩である。

 さて、そのとあるコーナー枠の中で、EXITのふたりが様々な境遇にある若者たちとディベートを繰り広げていた。

 まさに今の世の中のあり方を論じるザ・若者の声という感じのコーナーだったが、新鮮な意見や的を射る指摘もあり、ふんふんと頷きながら片手間に聞いていた。

 すると、ある一人の参加者が、こう述べる。

「ジェンダーマイノリティの人にとって、トイレの問題ってとても難しい。男子女子どちらに入っても違和感が生じる。その点コンビニのトイレ("男"か"男女兼"かの二種類)はとても入りやすい。トイレの区分、もう"男子""女子"とかじゃなくて"人間"とかで良くないですか」

 最後の一言はさすがに冗談でしょと思ったが、でもそのくらいの話だよな、とは思った。

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「ほかヲタ」でも頻出単語となりつつあるが、二元論的に捉えられていたものがその実「グラデーション」であった、という気づきがここ数年は特に多くて、性別に関しても同様だなと感じている。
 戸籍上、ないし生物学的性が男性である人の中にも、極めて男性的(あえてこう言う)な生き方をしている人もいれば、中性的、どちらかというとむしろ女性寄りであるという人もいる(それは性自認がいかようであるかに関わらない)。
 女性の場合も然りだし、またはそのグラデーションゲージの外に位置する人もいるだろう。

 であればこそ、今、世の中に存在する「境界線」を、取り払うとまでいうと極端だが、「意識的に曖昧にしていく」ということが、求められている場所や状況も存在するんだな、と思う。

 境界線は、僕らを守ってくれるものではある。
 うんざりされるかもしれないが、エヴァファンとして言うところのA.T.フィールド(Absolute Terror Field)だ。"Terror"とまで言うとこれまた極端だが、そういった類のものから個々を切り離し、守る役割を果たしている「境界線」は多い。
 現に、男女別トイレが、設備使用上のトラブルや各種の性被害から個々のユーザーを守っているという側面もまた確かではある。時節柄わかりやすいところで言えば、今までインテリアとして開放的に設計されていたブースが、アクリルパーテーションという境界線で分断され、利用者は飛沫から守られている。

 ただ、境界を設けるということは同時に「その仕切られた一つ一つの中から、どれかを択一する」ことを強いられる、ということでもある。
 先のグラデーションを無理やり分断するとしたら、「男子」か「女子」か、あるいは「それ以外」か。そして「それ以外」のトイレを選んで入るということは、入っていく自分のその背中に「それ以外である」というラベルを貼り付けることにもなる。
 それは、男性や女性の背中には貼っていない、特殊なラベルだ。

 くだんのディベートの中でコンビニの男女兼用トイレが良いとされたのは、それらのうちのひとつを選ぶというプロセスが撤廃されている、つまり境界線が取り払われているからだと思う。
 現に海外では「オールジェンダー(ジェンダーニュートラル)トイレ」として、全てのトイレが個室として用意されている施設も出始めているという。

***

 そしてそのトイレ問題の前か後か、発言者が同じ参加者かまた別の参加者かも忘れたが、こうも言っていた。

「ジェンダーマイノリティを"学びましょう""理解しましょう"と言うけれど、それは本当の共存ではない。学ばないと分からない、理解しないといけないものであるうちは、フラットに扱われているとは言えない。男性、女性というのと同じひとつのバリエーションでありたい」

 心にも、境界線がある。A.T.フィールドという例えは、むしろこちらにより近いものかもしれない。

 もちろん知識も関心もないままでいるより、行動を起こし、情報を集め、理解を重ねていく方が、双方にとっても良いことだとは思う。
 ただ、確かにことさらに「理解しましょう」「配慮しましょう」と言われると、なにか普通じゃないものとの共生を促されているような、えもいわれぬ温度差を感じるというのは確かにある。共存に向けた動きのつもりが、実はより境界線を色濃く塗り足すことになりかねないというのは、全く笑えない皮肉だ。

 本当の共存、それがどういう状態を意味しているかはわからない。ただ、それに近い世界や人々の観念に到達するまでの道のりは、まだ簡単ではないだろうと思う。当事者がそれをオープンにしやすい環境だったり、トイレに限らない様々な「境界線」の見直しだったり、数え始めれば枚挙にいとまがない。
 ただ、その中でも一番最初の取っ掛かりは、やっぱり「心の境界線」をなくしていくところにあるという気がしてならない。

 僕らがまだ小さい頃は、オカマとか、ニューハーフとか、オネエという言葉がテレビバラエティでなんてことなく聞かれた。
 今はとんと聞かない。なんなら、聞くと少し抵抗もある。
 話し手と受け手の解釈やニュアンスの問題ではもちろんあるが、いわゆるキャラクターだとか、ことによってはある種異常者のような扱いにも聞き取れてしまう上記のような言葉が、確かにそうだよね、と鳴りを潜めている。
 現状わずかずつ取り払われつつある「心の境界線」のうちのひとつがこれのような気がしている。

 あるいは、「ダイバーシティ」という言葉で許容するのはたやすい。
 だがそれは許容であると同時に「まあ、色んな人、いるもんね」と距離を置いて触らないようにする(触らずにいられる)ことともなりえるな、と思う。それは「心の境界線をなくしていくこと」の中には含まれないと、個人的には解釈している。

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 僕はここで、正論を述べている、述べれているつもりは一切ない。
 現状一応シスジェンダーの立場として、上記のような問題の(狭義の意味での)当事者ではない以上、どんなことを書いても当事者の理解を完全に得られることや、僕が完全に理解できることはないと思っている。

 ただ、たまたま目の前に集まったいくつもの材料と、それをきっかけに能動的に探し出したいくつかの追加材料を並べ、独自の理解と解釈をし、書き起こし、みんなはどう思うのかな、と少し気にしている。これ以上でも、これ以下でもない。
 重要なのは、そうする(本稿を執筆する)きっかけが、24時間テレビ放送日のあの時間、僕に与えられたことに他ならないと思う。
 でなければ、ここまでに書いたことは確かに僕の中から出てきた僕の意見ではあるものの、明確にこういう形で抱けてはいなかったとも思う。

 むしろ正論たり得る意見がどんなものか、僕にはわからない。きっと誰にも、それは本当の意味ではわかりえないだろう。

 ただ「わからない」ということは、確かに恐怖(Terror)や不安の源泉となるものではあるが、少なくともそれを自覚している限りそれは「罪」ではない。
「まだわからないでいる」ことをネガティヴに捉えるあまり、対象に直面することそのものをやめてしまったら、それは、それもそういう罪だと思う(「罪」という言い回しは特定の誰かを非難したり排斥したりする言葉ではない)。
 大切なのは、少なくとも「まだわからないでいること」をわかっていること、その上で自分はどうするべきかを考えることにあると思う。

***

 EXITとその若者たちがどのような結論に至ったかは残念ながら記憶していないが、本稿執筆にあたっての資料検索中に見つけた、関東学院大学ホームページに記されていた一文がとても印象的だったので、抜粋して〆とする。

文化が変容し続けるかぎり、ジェンダーもまた変容し続ける。

 ここに、僕などが書き加えられることがあるとすれば、その「ジェンダーの変容」は社会的なものでもあり、また個人的なものでもあると思う、ということだ。

***

(24時間テレビの発言内容は、概略的な記憶と個人の解釈に基づく要約・意訳として記載しています)

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