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【エッセイ】「自由」「多様」なんて、

短編小説を書くことを好む僕にとって、こうしたエッセイは性に合わないのかもしれないが、書きたいのだから仕方がない。本当はこういうことを卒業文集として消化できるといいのであるが、癖が強い校風とはいえ、これを書くのは、あまり卒業ムードに合わないので、ここに残して終いとする。

「自由な校風」と聞くと、それは生徒主体で様々なことを進めることができることを想起しがちであるが、実際は先生の制約が入ることが大半である。その制約の中での「自由」なのであって、本当の自由ではない。ただこれは、学校という組織自体が生徒主体で動いているわけではないので、生徒たちはこれに従わざるを得ない、そうしなければ組織が機能しない、という元であるので、仕方のないことであるが、やはり「自由」と聞くと、生徒主体で、自身の理想郷を築くことができると思いがちなのは確かである。

「多様な校風」と聞くと、あなたにはどのような校風が浮かび上がるだろうか。僕には、生徒の居場所が必ずどこかにはあることが保証されているような学校として認識する。部活・同好会、体育祭・文化祭関係の組織、委員会、プライベートなコミュニティなど、それは一に定まらないが、生徒各々が自身の居場所を見つけることができ、各々が自身の快適さを追求する場であると僕は思う。

「自由」とは、0→1であり、「多様」は1→10である、と僕は思う。どちらがいいものなのかなんて人それぞれで、挑戦志向の者は「自由」を好み、安定志向の者は「多様」を選ぶのだろうか。多分、「自由」も「多様」も、自身で切り開くにはかなり勇気がいるし、それを自覚している者も少なくないと感じる。

そして、そのギャップに失望、諦念する者も。

僕は、学校生活の中で、自分に「自由」を求めた。自らが作り上げたコンテンツで人々を笑わせたり、自分が成したことで人々に利益を与えられる人間を目指し、また、その経験が将来人の前に立つものとしてのスキルとして活きるような学生の成長を志した。
文化祭でコロナ禍の喫茶店営業の実現や、運動会活動における下級生指導がその一例である。「他人のために生きる」をモットーにした僕の学生生活は、傍から見たら充実している、というか「何時も頑張っている人」という感じであろう。それは大いに構わないのだが、内情が違うという事だけは知ってほしい。人々を笑顔に、喜んでもらえるコンテンツを作り上げることはできても、そのクオリティは自分が納得のいくものではなかった。その矛盾が気持ち悪かったし、恐らく今後も引きづるものであろう。自分の理想の大半は、その道を与えてくれた先人であることが多いが、自分がいくら頑張ろうともそこには行き届かなかった。悔しかった。

一方で、気づいたこともある。「自分のために生きること」「共生すること」の二つである。
「自分のために生きること」は、受験勉強から得たものである。高三の六月まで、前述のように自身のやりたいことに注力していたために、そこからの受験勉強は辛いものであったが、そこで初めて、自分の人生のために自分が努力するという感覚を体験した。自分のためだから、と奮い立たせる光景は少々ヒステリックなものであるが、それほど「自分の自由」のために何かをするという経験は、この先もほとんどないと思う。
「共生すること」は、前述の通り、自分の理想郷を作るには自分だけでは駄目であるという事である。協力者、すなわち「多様」が「自由」を広げてくれることで、その光景は実現するわけである。

「多様性の時代」と言われるこの現代も、この文章を読んだら考えが変わるのではなかろうか。

「なんだ、1を10にしているわけではなくて、色のついた1と他の色の1がぽつぽつと認識しあっているだけじゃないか」と。

だからこそ、この現代において、そもそもの従来のコミュニティにおいての問題点は、1から10に発展していかないことにある。そこが可能性でもあり、人間科学の新たな知見であり、本当に住みやすい社会の実現だと思っている。

どこぞの市長が議員を叱責することがメディアで簡単に拡散される時代だ。少しだけ活路が見えてきたみたいだ。

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