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おまじない 1

まだお互いのことなど一つも知らない男の子に言われた。給食の野菜スープを口に入れたけど生温い印象しか抱かなかった。
「ありちゃんの鼻ってなんで潰れてるの?」
その言い方に嫌味な要素は全く含まれていなかったのは事実だけど、
「え、これ、ね……」
なんで潰れてるって言うのかな?潰れてなんかないはずなのに。でもそう言われると私は他の人よりも大きな鼻をしていたことが分かった。
私の鼻は団子のように丸かった。
「これね、小さかったころに階段から落ちてこうなったんだ」
切ない嘘をついた。私は別に階段を落ちるような天然な子ではない。
むしろ一段一段しっかり確認しつつ、手すりをつかんで降りる子だ。
嘘をついてる自分が悲しかった。
「へー、そうなんだ。だからなんだね」
納得したように男の子が頷いて、大きなコッペパンを齧った。
パン屑が野菜スープの中に入って、沈んでいく。男の子はそんなことも知らずスープに口をつける。コップの縁と下唇から溢れた液体が白いお盆に滴れて、ぷるんとまるい塊になった。
私の鼻もこんなに丸いんだ……。
溢れた液体に男の子は気づいた。誰にも分からないようにお盆の下に敷いてあるハンカチで液体をさっと拭いた。乾いたハンカチがみるみると濃い色に変わっていく。
どろっと私の鼻が潰れていく感じがした。
今まで気にしていなかったものが、何気ない一言で脳内に泥のようにへばりついて離れなくなった。
悪い鼻だ。
気持ち悪い鼻だ。誰かが呟いてくる。

その日からコンプレックスが生まれた。
朝、目覚めるとまず鼻があるかどうかを確認して、それから朝日がカーテンを通して溢れるのを感じ取る。起きると鼻をもう一度さわってから階段を降りる。リビングにいくと朝食を作っている母が見えた。大きな背中を丸めてテレビの声を聞いていた。私は洗面台に向かった。鏡を見る前に丸い鼻が高くなっていないかを少しばかり願うように、目を閉じてから入るようにしている。ぱっと目を開けると昨日よりも丸くなっているのではないかと思う鼻が私を嘲笑うようについていた。粘土で作ったみたいに、私の本当の鼻ではないみたいに。冷たい水で顔を洗った。私の鼻ではないと意識していたからか、冷たい感覚は感じなかった。
「ご飯できたから、食べなさいよ」
母の声が水の入った鼓膜から聞こえた。テレビの声も同じように、でも母の声はやっぱり違って新しく今日生まれた声のように新鮮だった。
私は顔をタオルでさささと拭いて席についた。テーブルには白飯と味噌汁と目玉焼きとウインナーが二つ置かれていた。目玉焼きには醤油がかかっている。母はいつも醤油を入れすぎる癖があるから、嫌いだ。酸っぱくなるし、せっかくの卵がかわいそうに思えてくる。お茶とコップが遅れてテーブルの上に置かれる。コップはいつもの陶器製の町内会で作ったマイメロが書かれてある少し重いやつだ。洗う時にはそこをしっかり洗わないと麦茶の染みがついたままになるから気をつけなくてはいけない。
「あんまり鼻くそほじらんのよ」
母が笑いながら注意した。だからそれが本気で私のためを思って言っていたのかは定かではない。
私は気付いてもやめられない癖で人差し指を鼻穴に入れて、鼻くそをほじくっていた。それが大きければ大きいほど口の中に入れてしまうのも癖のようだ。ティシュが近くにあれば拭き取ることもできるのに、今日は手の届かないところに置いてある。しかも、猫対策のためティシュ箱が逆さになって置いてあるので、いちいち表にして紙を取り出し、また逆さにしなくてはならない。それが面倒だからと自分に言い聞かして正当化し、謎に言い訳を考える癖もできた。
父がテレビの前で靴下を履いていた。もうすぐ家を出る合図だ。父は私が登校するよりも早く家を出るらしい。作業着を着ている白髪頭の父が私の頭を撫でて、玄関へと向かった。母は私に微笑んでから父について行った。
「今晩は遅くなるの?」
「知らんよ」
「知らんって何よ」
「まあ、早く帰ってくるだろうな、多分」
「だから多分ってなんなのよ」
喧嘩ではない喧嘩の会話が玄関から聞こえてくる。
ウインナーをかじると油がテーブルに飛んでいった。油膜がぷるぷると動いていて、それを生き物のように眺めたメロディが刺のある舌で舐めた。
「ねえ、メロディがまたテーブルに乗っかったよ」
母に言ってるのか、メロディに注意しているのか分からなかった。
メロディの鼻はとても小さくて平らだ。黒くて毛で覆われていて、細い鼻穴は息ができているのか疑問に思うほどだ。時折、舌で鼻全体を舐める仕草は、私が鼻をほじるように異物を、鼻に感じる気持ち悪さを払拭する為に行っているのだろう。メロディって、鼻をほじるのかな。
「またまた。ここに乗ったらだめって言ってるじゃない」
メロディが母の手に抱かれて床に移動した。素朴で、か細い声が足元から聴こえてきて、頭を擦りつける。私は母にばれないように黄身をひとかけら落とした。メロディがくんくん匂いを嗅いでいる。
玄関の扉が開いて、母がいってらしゃいと告げた。父が仕事に向かった、それにかぶさるように、らっしゃーいと私も声を出した。
母はそれから洗濯物を干しに二階へ上がった。忙しそうだ。メロディもそれに追いかけた。

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