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音、音楽。

私は、音楽が好き。
歌詞があってもなくても、”音”が好き。

アーティストもたくさんの人が好き。

ふと、このnoteでは、
米津玄師さんについて触れたいと思ったので綴ってみるけれど、
これは私個人が感じていることなので、
このnoteを読んでくださっている方が私と違うことを感じていたとしても、
「自分とは違うんだな」くらいで流していただいて大丈夫です。




米津玄師さんを好きになったのは、中学生か高校生の頃。
曖昧な書き方をしているのは、断定できないから。
最初に聞いた時は、大好き、ではなくて、
たまたま聞いた曲がなんとなく好きかもって思って聴き始めて、
だんだんはまって、気づいた時には夢中だった。


新曲が出るたびに、この曲好きだなって思っていた。
米津さんらしい、というとおこがましいけれど、
どの曲も米津さんが歌うイメージが湧く曲。

そして、不思議なのは、
曲が出るタイミングと、私に起こる出来事とが、
あっていることが多いということ。
冗談ではなくて、かなり近い。
MVを見ていても、状況が似ている。

図々しいけれど、
毎回私の人生にはなくてはならない曲になっている。


どの曲も好きだけれど、
”今”よく聞くのは、『M八七』。

出された時から好きだったけれど、
この曲はどうして好きなのか、
いつもより考えないとしっくりこなかった。
”好き”の感覚も、いつもと少し違っていた。

これは、特に歌詞が好き。

好きというか、私の考え方みたいなものに似ていた。

特に、2つのフレーズが。



まず一つ。


「痛みを知る ただ一人であれ」


嫌なことははんぶんこしたい、とか
痛みは誰かに話して、とか
よく聞く言葉。

決してそれらが間違っているとは思わないし、
時には誰かと痛みを分けることだってある。

だけど、それ以上に、
痛みは私一人で終わらせたい。
知るべき痛みなんて、知らない。と私は思っている。

嬉しいことや幸せは誰かに伝わって、
その人にもいいことがあればいいなと思うけれど、
痛みは誰かに分けたくない。

誰でも、痛みより嬉しさを知りたいと思うし。


同じ痛みを誰かにも知ってほしいなんて、
自分がいたいと思うことを相手にも経験しろなんて、
そんな残酷なこと、言えない。

自分が痛みを知っていることで、
誰かが救えたり、誰かに何かを伝えられるなら、
私一人でその痛みを終わらせればいい。



それから、もう一つ。


「物語の始まりは 微かな寂しさ」


寂しさというよりも、私の場合は違和感に近いのかも。
いい違和感もあれば、よくはない違和感も。

こうやってnoteに何かを綴るのも。
これ好きって気づくのも。
何かをしたいと思うのも。

何かが始まる時は、必ず違和感がある。

何もない日常の中に、
ふっと少し違う色がつく。

そんな感覚にも近い。




自分が色々な感覚にかなり敏感だから、
日々それに振り回されないように、
無意識に自分を鈍感にさせていることがある。

そうすると、
なんだか調子良くないな、とか
なんとなく頭がぼんやりしている、とか

そんな感じで不調になっていることが多い。
(全て、それだけが原因ではないけれど。)

それに気づいた時に、この曲を聴く。
自分を元の状態に戻すために。

ひどく調子が悪くなっている時には、
ヘッドフォンをして、周りの音を一切入れずに、
結構大音量で聴く。

それで、だいぶ良くなる。
本来の自分が、少し取り戻せるような、そんな感じ。




米津玄師さんの曲に限らずだけれど、
何曲か、私にはそういう曲がある。

そんな曲に出会えていてよかったと思う。

自分から離れてしまっている時に、
戻ってくる方法の1つ。

そんな方法を、もっているということが、
お守りになる。






できることなら、
自分から離れてしまわないようにしたいところだけれど。


まあそれは無理なので。



音楽が、私の人生において、重要なもの。

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