嫌いなものは嫌いのまま
私はの中で、好きと嫌いの種類はさまざま。
好き、好きではない、嫌いではない、嫌い。みたいに、他にも分かれている。
「分かれている」とした方がわかりやすいからこう表現するけれど、実際にはグラデーションのようになっている。たまに「好きではないけど嫌いでもない」みたいなこともある。
ふと思ったのは、私は「嫌い」が少ないということ。
食べ物であっても、苦手なものはあるけど別に食べられるし、嫌いなものは今食べたことのある中ではトマトだけ。
人のことも、自分とは違うタイプの人や相性が良くない人もいるけれど、別に嫌いなわけではないし、お互いにそれをわかっているから悪いとは思わない。
昔は、「好きなものと嫌いなものは?」と聞かれるのが苦手だった。その頃は、感情が薄いから何かに対しても感じることが少ないと思っていたから。
でも実は、そうではなくて、単純に嫌いなものが少ないことと、「グラデーションがある」という概念が自分の中ではっきりしていなかったことが原因だったと、今なら思う。
そもそも、私が嫌いと認識しているものは「生理的に嫌いなもの」。だから当然ながら、苦手なものであっても好きなものはある。
自分の中で何がどれくらい好きなのかがわかるようになってからは、嫌いなものもわかるようになった。
ただ、1つ面白いのは、嫌いだと気づいたものは、今でも嫌いなままだということ。固定概念だと言ってしまえばそれまでだけど、違うと思う。
私の中での嫌いなものは、生理的に嫌いなものだから。
不思議なことに、苦手なものであっても好きなものはあるけれど、嫌いだけどできるということはない。
何が嫌いなのか考えてみたり、どうすればできるようになるのか、これが好きな人はなぜ好きなのか聞いてみたり、いろいろなことをしてみたことがある。
それでも、できるようにはならなかったし、私にとっては魅力的に見えることはなかった。
人それぞれ、眠くなるタイミングや必要な睡眠時間は違うものの、誰しも眠気を感じるのと同じように、私にとっては嫌いなものは自然発生的に嫌いになってしまうものなのだ。
それに気づくと、少し楽になった。
今まで、何度も「嫌いだと思っているものは、ただ苦手なだけ」「努力が足りないからできるようにならない」と言われてきた。
もちろん、人によってはこの考えが当てはまるというのもわかっている。実際、私の知人の中にも努力して、嫌いなものが嫌いではなくなったという人はいる。
その上で、私の場合はそうではないのだ。
私の中での「嫌い」は「生理的に受け付けられないもの」という基準があるようだから。つまり、私の中での「嫌い」はとんでもなく嫌いなときにしか発動しない。
私の中では「嫌い」は「嫌い」だけど、他の人からの判断基準を考えると、こう説明するのが1番伝わりやすい。(ややこしいけれど。)
とはいっても、他の人と基準が違う以上、伝わりにくいことに変わりはないけれど、説明はしやすくなる。
嫌いなものは、嫌いのままでいいと思うし、無理にやる必要はない。それが原因で、心身の不調が起こってしまっては本末転倒。
自分が得意なことや好きなことで活躍できれば、私はその方が嬉しい。
無理なく挑戦しながら、自分ができることや好きなことで、何かの役に立てたら。
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