落とし込めないと出せない
この頃、よく言われるのが「言葉の咀嚼回数が多い」ということ。
自分ではそれほど意識して言葉の意味を考えているつもりはないのだけど、私は理解できないと次に進めないというのが大きいのかもしれない。行動に移すのも、次の段階の思考をするのも、その言葉を使うのも。
例えば、最近改めて考えたのは「優しさと」「思いやり」の違い。私の中では、100%ではないけれど、ある程度自分の中で理解して、落とし込んでいる。
だからこそ「優しさのすれ違い」に苦しみすぎずに、人と付き合っていける部分がある。
自分の中で、その言葉の意味が自分なりに理解して、落とし込めないと、行動も言葉も出せないから、必然的にその言葉の意味をある程度まで考える癖ができているのだと思う。
言葉を使うまでに時間がかかるから不便なこともあるけれど、軽々しく言葉を使いたくないし、相手とすれ違ったり勘違いしたままになるよりはいいかなと思っている。こうしてnoteを書くにしても、自分のことを正確に書き出すことができる。
でもそれが「考えすぎ」と紙一重だということもわかっている。
この「考えすぎだよ」という言葉。よく言われることなのだけど、私にとっては重い言葉の1つになっている。
私の中では考えすぎるという状態は存在しないに近いので、なんとなく、遠回しにでも自分自身が否定されているような、認められていないような、そんな感覚になる。
長所と短所は紙一重というのと同じように、言葉も見方が違えば意味が変わる。「考えすぎ」という言葉にも、私が感じているような意味は含まれていないのかもしれない。
だとしても、それは相手に伝わらなければ、どれだけ意味を込めても関係ない。相手に自分が意図した意味が伝わったら「誤解のない会話」と言えると思う。
ただそれは伝える側の難しさでもあり、受け取る側の難しさでもある。
先ほどの例で言うと、優しさは人によって違うから、自分が優しさで相手にしたことが、相手にとってはただ苦しめられただけのような感覚になってしまうこともある。
伝える側は「本当に、自分にとっては優しさなのだ」ということが伝わるように伝えないといけないし、受け取る側も「もしかして優しさなのか?」と選択の余地を残しておかなければならないと思う。
ただ、これは頭ではわかっていても、簡単にはできることではないし、タイミングや自分の譲れないこだわりとかによっても変わる。私自身、常にできているわけではない。(これだけ偉そうに言っているけれど。)
見方が違えば意味が変わるからこそ、1つ1つの言葉を慎重に使わなければいけないと思うから、私は「考えすぎ」をやめられない。
そして一生、知人にも「考えすぎだ」と言われていくのだと思う。
「それが私なのだから仕方ない」と言い返せるだけの勇気があればな、なんて思ったりもする。