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デフ・ヴォイス:小説とドラマのテーマの違いについて

「デフ・ヴォイス」後編は、草彅剛さんが、船越英一郎に見えるシーンが多くて、とてもよかったですね(ただの火サスファンのおばちゃんの言←言うほど見てない)。鬱屈した中年おじさんだと思ってたら、突如探偵になる草彅さん、もっと見たい。美和ちゃんと遊んでるとことのギャップもよかった。原作で訴えたかったろう者の不遇はだいたいカバーされていたし、2.5時間でよくあそこまでまとめたなあというのが正直な感想だ。10歳頃に通訳を拒んでいた時期があるという新しいエピソードは、真実味が増して良かった。ただのスーパーハイスペック手話通訳荒井に自分の意思という人間味が足された感じがして。そして、「デフ・ヴォイス」という「解説書」かなにかかと思われるほど、これでもかとろう者コミュニティの社会からの抑圧エピソードを詰め込んだ原作から、ほとんど問題は引くことなく尺に収めた技量はすごい。

上でもネタばれしているが、下は完全にネタばれ考察である。

原作の”発明品”をなくしてしまったのは残念

ただ、これは改悪といいたい改変がある。門奈姉妹のそれぞれの告白のシーンだ。それぞれ美しいのだけどそれぞれ配慮がなくて、どうしてこうなった? と不満である。(「不満」の手話は、掌をパーにして胸に打ち付け、掌を上にして体の外側に落とす)

私が小説版「デフ・ヴォイス」が名作だと思ったのは、「もうひとりのコーダ」である門奈妹こと瑠美が、音声でつつがなく養父母への挨拶を終えたあと、何食わぬ顔で突如ネイティブの手話で、過去の殺人を告白するところだった。ろう者たちは、特に驚きもせず、彼女を守るために結託してきたので見守るばかりだ。聴者たちは、新郎も含め、さっきまで声で話した挨拶を手話で繰り返しているのかな? と和やかな様子で見守っていた。養父母だけが、事情をわかっていて、手話がちゃんとはわからないはずではあるが、ろう者たちと同じ顔で見守っていた。手話がわかるが、過去のことを知らなかった、新藤=フェロウシップのスタッフは動揺する様子が描かれる。

結婚式はつつがなく終わり、門奈姉は警察に連れて行かれるが大捕物の感はない。ひっそりと手話の世界と聴者の世界の断絶が鮮やかに描かれたシーンだった。

ドラマ版は、美しいウエディングドレスに身を包んだ瑠美ことコーダ・門奈妹役の橋本愛さんが、これまた美しく、そして顔がちゃんと動いている日本手話と、日本語、交互にいきさつを告白した。結婚披露宴のお祝いムードはぶち壊しになり、戸惑う気の毒な新郎…。

ところで、結婚式・披露宴って、だいじだよね? 私自身が、これには思い入れがある。今までの人生で私を大事にしてくれた人たちが一堂に会し、ある意味「お葬式のように」それまでの私について語り合い、私はその日「新しい家族」を得て、やっと自分自身になれたと感じた。家族が望むので形だけでなんとか結婚式をとにかく済ませたくて投げやりになっていた私に、夫は「あなたのために結婚式をやるんだから」と私を励まし、やる気を奮い立たせてくれた。だから、結婚披露宴というのは、親たちに庇護されてきた「古い自分」にけりをつけるものと、私は思っている。

そんなわけで、まあサスペンスでありがちな「花嫁の告白」シーンではあるのだけれども、あんな非常識な「お祝いに来てくれた人みんなに真相を打ち明けてすべてを台無しに」(しかも新郎も初めて知るドッキリ展開)はさすがにどうかと……。最後の「私たちは家族です」は誰に向けられた台詞か? 「小さいパーティーだから全員大事な家族」解釈はあり? いや、だって夫の方の招待客が半分いるでしょ??? つまり、それはもう「決別したはずの家族をやっぱり家族だと告白する」だけのシーンにしたわけだ。原作は多分、家族だったのは、手話が通じる人みんな=デフコミュニティだったんじゃないのかなあ。このシーンは本当に、「ビジュアル的に見応えがある上に、バカバカしくもなく、二つの世界の分断を描く秀逸なシーン」と読み返すたびに思い入れを深めていたので、ちょっと偏ってる自覚はある。原作の狂信者的ファンは言う。

「私たちは家族」が字義通りの家族解釈でも、デフコミュニティに向けたメッセージでもどっちでも良いから、次映像化するときは、ぜひ、視聴者を信じて無音でやってほしい。

ただ、この改変は「コーダ」の意思なのかなという気もした。どっちつかず、どっちもの世界にも身を置く人として。小説版だと、コーダは「ろう者側の人」か「聴者側の人」か問われたりするので(おじさんは、敵? 味方?)。実は、「デフ・ヴォイス」はコーダを主人公にしていながら、「ろう文化」を参考資料の多くの割合使っているようなので、コーダの描写は「ろう者」側から見たものが多いのが難点だったかも知れない。脚本家の高橋美幸さんはコーダの通訳者にヒアリングを重ねたというから、それはもう全然違う視点がはいってきただろう。手話監修に同じくコーダの米内山陽子さんも入れている。

かくいう私も「コーダ」ではなく「ろう者」を相手に研究調査をしているので、ここまでも「コーダ」の感覚については、「あえて」ほとんど触れていない。多分、触れる権利がないからだと思う。これ最初に断っておかないといけなかったな。コーダについての新しい本はこれだから、私もこれから読むし、皆さんも是非読んで欲しい。

殺人の動機が稚拙になったらミステリーは悲しい

門奈姉、ろう者の幸子。ドラマでは、いわゆる誘拐犯に誘拐されてるのに共感してしまうようなストックホルム症候群のまま裁判なのか。小説版の裁判シーンでは、まあ確かに、説明的で、やけに自分のことを客観的に供述しているという印象は否めない。

小説では虐待してきたやつの息子が、しつこく追いかけ回してきてさらに彼女の尊厳を奪うようなことをしていて、さらに妹からも搾取しようとしていた(まあ彼は親を殺された被害者家族でもあるからね)。だから殺したんだと整理している。ドラマ版だと「恋でした」って…。待て待て。子ども時代にその親に虐待されて、犯罪者の家族になって、いろいろ大変だったのはわかるけど、頭弱い子のまま法廷に立たせている印象になっちゃったよ。支援者もしっかりして!フェロウシップがしっかり彼女を守っているという印象も薄れて、なんか「え、ええ〜」ってなった。

そもそも原作と違う感情の流れを追わないといけない

私の「デフ・ヴォイス」小説の分析はここに書いた。これを後編を見る前にまとめたので、ドラマ版との差異がよくわかった。

追加されたシーン

  • 菅原さんのお母さんが迎えに来て菅原を呼ぶ「帰っておいで」
    →最後に荒井がお母さんに呼ばれるのとリフレイン

  • 荒井がコーダとして通訳を拒否していた過去エピソード
    →コーダとしての物語に厚みを加える

  • 兄との喧嘩
    →家族の物語としての決着のためのなにか。聞こえるだけなんだぞ。

変更されたシーン

  • 前夫に美和が誘拐されかける
    →平和裏に終わって古い家族写真から美和が気づく

削られたシーン

  • 宇津木(「ろう文化宣言」の共著者で、聴者の研究者、手話通訳学科教官)が荒井に「君はどっちの立場で事件を調べているんだ」と迫る
    →アイデンティティの物語をやめた、コーダは「ろう者」ではない

  • デフファミリーの両親と兄と「自分」は別なんだと気づくシーン、お葬式
    →多分、ヤングケアラーとしての側面のほうを大事にしたから、このシーンじゃなくてよかった?

  • 子どもを作るの怖くないよ、とみゆきにいう最後の方のシーン

私の場合は、最後の草彅剛さんのドアップの苦悶?の表情がわからなすぎて「これどういう感情」ってなってるうちに、お母さんがデフ・ヴォイスで名前を呼んでいい顔で終わった……

何かいろんな解釈をX上でみかけたが、これがなんとなく妥当なように思える。「いいね」も多いし。「肉親にのみ見せる「本気」のすさまじい表情」で、それを契機に母は息子の名前を呼んだ、でOK?

ここが、ちょっとわからないんだよな……あれがわからないと最後に「泣けない」のはわかっていて、この物語は再編成されたものだという解釈をたどっていっても「家族にのみ見せる本気の表情」がなぜ解き放たれたのかもわからない。「聞こえるだけ」を言いたかったのはわかるんだけど、うーん、なんでその日そこで怒りを爆発することになったのかわからなかった。感情の流れが。割と唐突すぎて。

……そんな伏線あったっけ? せめて「僕はもう通訳はやりたくないんだ!」ってすごい顔で子役に叫ばせるシーンでも入れといてくれれば、その伏線が回収できたと思うのだけれども、突如あの顔がきても「お、おお」と圧倒されるばかりで謎が深まるばかり。助けてTwitter! じゃなかったX! ってTL追っちゃったよ。荒井少年は、兄ちゃんに殴られっぱなしで、転んでお母さんを呼んでも振り向いてもらえなくて、うーん、影が薄い。小説版でも「自分だけ聞こえる」と気づいて、兄ちゃんだけ庇護されている、と感じており、「家族にのみ見せる本気の表情」を母がこれまで見たことがあったのかも謎。いや子どもだからあったはずなんだけど、だったら伏線で入れといてよ。あ、尺がないのね。わかった、OK、OK。(わかってない)

家族の絆に焦点を当てて編成をし直された”もうひとつの”「デフ・ヴォイス」だったのだ

ドラマと小説はテーマが別だ。最初からドラマのテーマは「家族」と前置きがあったじゃないか。それが今回のドラマの「普遍的なテーマ」だった。ことばが違っても、いくら不遇でも「家族愛は不滅」みたいなところかしら。

兄ちゃんとの殴り合いは「今まで殴られっぱなしだったけど、殴り返して言い返せるようになった」という荒井の吹っ切れ感を示している。よかった。身体表現でラストにたどり着けるのはよかったんだけど、「あの顔は…なに?」でやっぱり止まってしまう。荒井兄ちゃんは、最後になんか兄らしい良いこと言いながら帰って行ったけど、いまいち腑に落ちない。お母さんがあれに反応した理由も。まあ認知症だから理由なんてないのかもだけど。唐突で。

母が名前を呼ぶ。それは、菅原さんを呼んだお母さんのシーンの反復でもあり、ここで話の流れに乗れている人は、泣ける。母は自分だけを声で呼ぶ。忘れられてなかった。良かったね。

——家族だけが、家族の愛だけが残った、という話でよかったのか。12年も前にすでに答えを出していた私。

12年前の初版の帯に書いてあったんだよ「愛だけがそこに残った」と。この当時、この「愛」は「みゆきとの愛ってこと? それにしては二人はべつに一緒に何かを解決したわけではないし意味不明」「それとも尚人を呼ぶ母の愛?」と思ってたと思う。みゆきが見守る愛、それはあったと思うけど、母の愛はよくわからないし…それをよすがに解決した物語じゃないし……この帯を書いた人はそれを何かしらの側面で「愛」を読み取っており、その「謎」に対する回答はドラマから得られた気がする。家族は苦しいけど家族なんだ。

ちなみにこのツイートに、当時、丸山さんご本人が「自分もそう思う」みたいなお返事をくれていて、私のなかで「みゆきの愛や家族愛がテーマではないってことよね」と回答を得ていたので、なおのことわけわからんくなってしまっていたのは事実。12年間「愛」ルートは封鎖されているので、突如開門されても道順がわからんのだった。聞こえても聞こえなくても家族って結論?

「デフ・ヴォイス」は、割と淡々と進む小説だし、なんか事実をたくさん詰め込んで並べたものなので、読む人によって読み取り方が変わるものだという認識はしている。だからこそ、読みたい読み方で読むことができる「能面」のような側面があるのも特徴の一つかも知れない。極めて理性的な説明がされていて、それはそうだと思うように織り上げられてはいるのだが。

例えば、私は結婚を、過去との決別のシンボルとして捉えているので、「瑠美は過去に決別するために手話で演説した」だから「荒井も過去に決別する」「手話通訳者としての『新しい』アイデンティティを得て、『間に立つ』人として、前向きに結婚を考える」という、新たなアイデンティティを自分で確立できた、という解釈を推したい。事件は解決し新しい家族に新しい自分で向き合う、新しい一歩を踏み出すときだ。

しかし、どうやらドラマ制作陣は「お母さんの元に帰る」という、くたびれた中年おじさんに必要なのは大いなる母の愛という解釈で物語を作ったように見える。菅原さんと、荒井の母が、彼らを呼ぶ。母の愛があるから、前進できる?

ただし。一連の丸山作品は、「家族(愛)だけじゃどうにもならない、社会の仕組みをもっと変えよ」というメッセージ性が一貫してあるように思う。それは丸山先生が、「ワンダフル・ライフ」でも描かれているように、妻の介護をしているから、そこの当事者性が重奏低音のように響いてくる。私はそれに共鳴し、それらの作品を読んでいる。

人は福祉を「配慮」とか「お気持ち」とか「愛は地球を…」の問題にしたがる。そうではない。社会の仕組みがこうだから、家族は家族としてうまくいかなくなり、「愛」が失われる。どうして、家族愛の物語としてリライトしてしまったのか……みんなそういうのが見たいのかな。まあなんたってNHKだしな。泣いたって人が結構いるみたいだったしな。結婚式のシーンでドン引きしないの? ミステリーのお約束だからいいのかもしれないな? しかし、家族愛はぜったいあったのに、それだけじゃどうにもならなくて人を殺しちゃった門奈姉妹。彼らの救いは「家族」だけに求めていいものだろうか。

私がドラマで泣けたのは、益岡さんが優生手術について述べ、荒井が子どもの時通訳を拒否してたために父の診断が遅れたという告白をしたシーンだった。ここに、デフコミュニティのご意見番としての益岡老人が「あんたは悪くない、子どもだったんだ」(社会の仕組みが悪いなかでも必死に子育てをした)「親に感謝しなきゃ」というメッセージを伝える。この「社会の仕組み」に言及し、それに翻弄される「我々」はいがみ合ってはいけないというメッセージで泣いた。「お母さんに感謝しなさい」「家族は仲良くするもんだ」みたいなやつじゃなくてさ。大きな仕組みによってマイノリティとしてくるしい思いをしてきた傷を、お互い癒やそうっていう心の交流がそこにある。

まあしかし、このシーン、「優生保護法」の一件を知らない人たちは、多分「こんな優生手術の犠牲者みたいな重たいテーマがドラマで出てくるなんて」とびびって、この荒井の過去との決別みたいなシーンを十分に味わう時間はなかったろう。私も、「うおお、展開速すぎてついていけん」と慌てていた。横で謎解きも走っているし。

「おかえりなさい」はどうなったのか?

この物語は、そもそも「ろう文化宣言」のスピンオフみたいなやつなので冴島素子が常に物語の鍵を握っている。小説版では、荒井は彼女に泳がされっぱなしなのだ。

まず彼女は最初に「おかえりなさい」と言った。荒井は曖昧な表情でいたままだった。「YES」と答えていない。「おかえりなさい」は「(家に)帰る」という手話でもある。

これに呼応して、決着場面で、瑠美は「私たちは家族」と言う。手話が通じる人にだけそれが伝わる。その「私たち」は「手話の世界」でないと物語が円を描いて閉じないはずなんだけど、どうも明後日の方に流れていった。つまり「家族だけが家族」。ヤングケアラーにとってそれは救いの物語になるか?

まあ、冴島先生が荒井を泳がせているシーンが減らされていたから、この円環は見えにくかったし、整合性がとれなくてもいいのだろうけど、小説版できれいな伏線回収だと思っていたので、そうではないルートに入ったな、と後編の「コーダ通訳拒否」「菅原さんお母さんのもとに帰る」エピソードあたりで気づいた。だから荒井は、改めてお母さんのいる「家族」の元に「行く」シーンが最終部にやってくるのだ。兄に今までの不満をぶつける。やっと今まで出せなかった感情を放出する。するとお母さんがやっと振り向いてくれる。転んだときのように。

最初の「おかえりなさい」はどうなったのか。そこには謎だけが残った。

おわりに

次にドラマ化されるときには、もっと丸山正樹のアイディアを生かせる尺をください、テレビ局さん。
そして、ろう者・難聴者の世界が改善され、コーダの悲劇とそれを背景にするような物語がこれ以上生み出される必要がなくなりますように。

なんだか「丸山正樹論」みたいなのをたくさん書いたが、とりあえずこれで今回は終わりにする。ドラマ、ありがとうございました。

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