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#虎に翼 が終わった

朝ドラを完走してしまった。

虎に翼、脚本の妙で言えば、まだまだ荒削りなんだろうと思う。前回書いたように、なんか「見せ場ばかり見ている」かんじ。これは「連続テレビ小説」なので、小説の地の文と挿絵と思えばいいのかな…。とりあえず、炭治郎が出てくるあの漫画と同じ方式で作られているという納得の仕方が割としっくりきている。

ある程度荒削りな筋書きと設定と、個性を示す記号がちりばめてあるから、こちらに委ねられている解釈の裁量が広いといえば、それがよかった点なんじゃないだろうか。いろんなことが起こりすぎて、一つ一つのエピソードで誰が何を思ってそうなったのか、ヒントとなる描写が少なすぎる!とは思った。演者が上手いから、良い断片はたくさんあるんだけど、隔靴掻痒。

とはいえ作者のメッセージはしっかりしている。「自分のことを自分で決める自由があるのが人権」。その軸がブレないから、これに乗っかれる人は、見ていてスカッとしたんだろう。雨だれにされたくないが、自分が雨だれになるならいい。最終回だってちゃんと説明していた。

穂高先生に怒って「渡したくない花束を渡さない」シーンは、脚本家の先生が最も気に入ってたシーンだそうだけど、なるほど、まだ3歳のお子さんを抱えたワーキングマザーの生っぽい感覚をとても反映しているんじゃないだろうか、と私は思った。私自身は、出産から8年経って、だいぶあの頃の焦燥感——焦燥感ってこのときのためにある言葉なんじゃないかと思うくらいの「焦燥感」——から脱出して「穏やかな日々の幸せをかみしめる」モードになったけど、これって、子供がすぐに熱を出したりせず、放っておいても溺れないと思えるようになってからだ。

子供を持つ前と、妊娠したあとの自分の生活や周りの変化は、今だって「なんじゃそりゃ」ってなる。その大きな変化を越えたばかりの「今」幼児連れの吉田さんが書いたかなり生っぽい「焦燥感」と「私はやってやるぞこのやろー」感が最も出ているシーンだから気に入ってるんじゃないだろうか。だって、彼女が産休育休をのんびり取ってたら、今年の虎に翼はなかったわけで。その生っぽい感覚に支えられたあのシーンはたしかに「今の吉田さんにしか描けないシーン」だったんだろうと思う。人が納得しなくてもその生っぽい怒りの感触をまだ覚えている人々にとっては、とてもスカッとするシーンだし、私はそこは今の彼女が描いたシーンであることに、とても意味を感じている。幼児連れの母の快挙だ👏

あの生っぽい焦燥感を越えた今、私自身はある意味大人になってしまい、穂高先生に花束を渡せる気がする。でもあのころは無理だったと思う。納得ができない花束を渡さない、お礼を言わない、謝罪を受け入れない! その強さは、「怒り」に支えられたものだ。そうでもしないと自分のアイデンティティが壊れそうな「怒り」。

しかし、ずっと怒っていると、とにかく消耗する。消耗するから焦る。日々火に焼かれているようなチリチリした感覚。よねさんがずっと怒ってるのも、大変なことだ。

実は寅子はずっと怒ってはいない。むしろ瞬発力の妙。一瞬で「はて?」って火がつき、持ち前の頭の良さでクルクルと答えを出していく。だから、寅子にとっておそらく継続する怒りは慣れないもので「怒りが顔に染みついている」産前から、虚脱に向かって行った戦中戦後は、見ているこちらもつらかったが、なんとなく解像度は割と高い気がしていた。(そのあとのほうが、設定をなぞっているだけみたいになってきていた気もする)

朝ドラヒロインって、がんばりやさんで、心の動きを追っかけていけば、その人の主観ではとても良い子で正しい、というのが定番だったと思うんだけど、寅子は、増長もするし、頭が良い設定で普通の人と違う反応をするところが面白かったと思う。

クローズアップ現代で、吉田先生が「マジョリティであるだけで人を傷つけてる」と言っていたが、私は手話研究をすることで、その矢面に立つようになってしまった人なので、よくわかる。男であるだけで女を傷つけているのだとか言われて反発する男は多いだろうけど、女から見ればそれは自明の理だったりする。——聴者であるだけで、ろう者からうっすら嫌われている。

下駄をはいて生まれて来た人たちは、下駄を履いていない人たちが見えていないものだ。私も、研究を始めるまでまるで見えてなかった。

マジョリティであるからこそできるエンタメを作りたい。マイノリティの人たちにばかり説明責任を押しつけずに。これには本当に同意する。私がやっているのはエンタメではなく研究だけど。

この精神でまたドラマを描いていって欲しい。ただし、詰め込みすぎないものが次は見たい。

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