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手話を見ていると聴覚の回路がオフになるような感覚

先週から界隈が祭りの「デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士」で本物のろう者がたくさん画面に出てくるドラマをNHKでやっていたのだけれど、制作陣は「衣擦れの音」まで拾ってろう者のいる空気感を伝えようとしているようだ。

しかし、不思議なことに、「よし、それを聞いてやるぞ」と思ってテレビの前に座っていて、音量もいつもより大きくしているはずなのに、それはまったく記憶に残らない。かなり集中して見ていると思うのだが。

制作陣がいう「衣擦れの音」は、手話のシーンを無音ではなく、手話が出す物音を入れている、しかしそれの邪魔になるような劇伴音楽とかはいれていないよ、という話だ。私は全然、注意リソースを割いていないらしい。Xで見ていると手話勉強中の人とか、音が〜といってるので、手話が見えるからといって音が聞こえなくなるわけでもないようだ。

そういえば手話をはじめた頃は、ろう者が「ぱ」とか「ぷ」とか、マウスジェスチャーの音が結構気になっていた。日本語に対応するマウジングにちょっとした 発音不明瞭な日本語の音が聞こえることもあった。その頃と同じ人に会ってるはずだが、そういうのも今はまるで「覚えていない」。聞こえていないわけではないのだろうけれど、全く気になっていないようなのだ。

コロナ禍で、オンラインで手話を学ぶと、先生の「声」というか「音」が聞こえないのがなんか違和感があると、ある学習者の人が言っていて「ああ、そういえばそんなのもあったっけ」と思うようになっていた。(ろう者はだいたい音声はミュートだ。下手にマイクオンになってると、後ろの人がテレビを見てたり、台所で皿を洗っていたりする音が聞こえてきたりする)

多分、手話を見ているときは、あんまり音に注意が行っていない。聞こえていても「聞いていない」。それはいったいどのくらいの時期からだったのか。手話が熟達化するとそうなるのか、それともただ「ここには情報がないぞ」と慣れたのか。いずれにしても、今のところ私の聴力には問題はない。

話に集中できないと、音はうるさいほど聞こえた

結局後編を見てから気づいたが、自分が話に集中できていないと、手話を見ていても、劇伴音楽や、衣擦れの音がずいぶんうるさく感じた。手話が見えない角度で字幕だけ読まなければならないシーンも多かった。なるほどなあ。言語情報を処理しようとしているとき、背景の音、音楽は、意識に上ってこない。その感覚が切れると、「聞こえる」のか。

なかなか面妖である。意識も認識も全然自分のコントロール下に、ない。

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