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モチ語

1歳児はモチのようなので「大福丸」と呼んでいる。彼女の話すことばは「モチ語」という名前で呼んでいる。モチの妖精だか妖怪だかよくわからないけど、とにかくもちもちしているからである。

さて、モチ語の特徴は、ときどき日本語の借用があるということである。しかしどうも日本語とはかなり違う。

たとえば「パパ」。どうやらこれは理解しているようで、初期の頃は「ぱぁぱ」とか言っていたのが、下降調の「ぱぱー」になり、最近はなぜかよくわからない接尾辞がついて「パパチ」といっている。

この語尾の「チ」はいったいどこからきたのか。

モチ語が我々の日本語と相互乗り入れしている、つまり我々に理解できる語のうち、語尾に「チ」がつくのは、「たっち」と「ばっちー」である。どちらも日本語の幼児語と呼ばれているものである。

大福丸は、つかまり立ちをするときに我々が言う「たっち」を覚えて「たっち」と言うようになったのだが、そのうち、つかまり立ちがしやすいデスクのあるわたしの仕事部屋(@ニューメキシコ)に行きたいときにも「たっち」と言っていた。また、「ばっちー」はいつの間にかオムツ替えのときに言うようになった。オムツ替えは日に何度もあるが、そのうち、日に一度か二度、うんちが出たときに親が「ばっちーばっちー」といっていたら、いつの間にか、オムツ替えのことを「ばっちー」だと認識したのか、オムツを替えるために寝かせると「ばっちー」というようになってしまった。

モチ語では、寝かされることを「ばっちー」というらしく、我々の日本語の解釈とはかなりズレがある。

「たっち」と「ばっちー」は、前者は能動的行為、後者は受動的行為であるが、どちらも行為であることから、「ーチ」というのは「行為」であると考えると、「パパチ」もやはり行為なのか? だとしたらどのような? まだ形態素解析とかしている風ではないのだが。そういえば、ミッフィーの動画を「わんわん」が出てくると覚えたらしく「わんわん」と読んでいたと思いきや、そのうち「わんわんチ」といいはじめたので、やっぱり「-チ」は生産性があるらしい。

モチの考えていることはよくわからない。

そういえば2ヶ月ほど前は、気に入らないことがあると「べちゃべちゃべちゃ」などと湿っぽいオノマトペ様の音声を発していた。ついで、「なんでじゃー」と言うようになった。否定をするということを覚えたらしい。

最近は、なにかとってほしいとき、絵本などを読んで欲しいときに、「ん」という。それと同時に、対象ぶつに伸ばした手をグーパーしていることが多い。本の場合は単に親に差し出すのだが。

大福丸は、日本語の絵本が好きである。なんだかとても簡単で単純なものの名前を連呼するようなものもエンドレスリピートで親に読ませている。最近のお気に入りは「さる ウキウキーウッキー」とか、「だるまさんが」を体感しながら読むとかである。オノマトペの多いページが好きなのかもしれない。親のほうはすでに内容どころか一言一句覚えてそらで言えるほどなのだが、まだ真似して言うとかはしない。ときどき絵本を読んでいる途中で「パチパチ」とかいうと、手を叩いたりはする。また、「わぁ」など感嘆詞をまじえていたところ、それだけは言うようになったりした。

先日、ご飯をたべているときにふいに「おいち」と日本語のようなものを発語したが、そのときに2回言ったっきりで、その後再現されてはいない。そういえばこれも語尾が「チ」であった。

モチ語は少しずつ日本語に侵食されていくのだろうが、今のところはウェイウェイペチャペチャいってる感じで、まだまだ他の言語である。基本的には楽しそうである。

ところで、最近はママでも寝かしつけができるようにと練習し始めて、ママの布団でも寝るようになったにもかかわらず、「ママ?」と聞いてみても、一向に「ママ」とか「ママチ」とかそういった発話は見られない。いつになったら母親に対してラベルをつけてくれるのだろうか。これもまた、少し楽しみである。いつまで経っても言わなくても、それはそれでまた一興。

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