囚われの聴衆に対して話をして満足しているようでは、面接や人物試験での合格は無理ですよ!

本日は,奇数日なので,

【初歩から学ぶ教採面接の合格戦略】

です。

本日のテーマは,

【囚われの聴衆に対して話をして満足しているようでは、面接や人物試験での合格は無理ですよ!】

です。

英語に、“captive audience”という言葉があります。

日本語に直訳すると、「捕まえた聴衆・囚われの聴衆」という意味になります。

囚われの聴衆とは、ある話を聞くために、ある場所に、ある一定の時間、物理的に「拘束」されている人々のことです。

例えば、私たちが、コンサートに行くとします。

私たちはあらかじめチケットを買い、コンサートの日にコンサート会場に行き、開演30分くらい前に会場に入り、自分の席に付き、コンサートが始まるのを待ちます。

そして、コンサート開始時間が到来して、アーティストが舞台に登場し、2時間なり、3時間なりの音楽が始まります。

この時、アーティストにとっては、聴衆は“captive audience”(囚われの聴衆)です。

聴衆は、原則として、自分の席を離れるわけには行きませんし、音楽を聴くことを拒むこともできません。

コンサートが始まる前から、コンサート会場には既に聴衆は存在し、その聴衆は、よほどのことがない限り、コンサートが終了するまで、そこにいます。

チケットが売れて、そこに聴衆がいる限り、アーティストは、コンサート開始前から、コンサートの最中、そして、コンサートが終了するまで、聴衆の存在を享受できます。

つまり、アーティストは、囚われの聴衆を前に、パフォーマンスをすることができます。

パフォーマンスの巧拙・優劣で、眼前の聴衆を、その場ですぐに失うことはまずありません。


一方、私たちがリビングルームでテレビを見るときは、“captive audience”(囚われの聴衆)ではありません。

テレビの電源を入れても、何を見るかを決めていないことも多いものです。

チャンネルをあちこちに切り替えて、面白そうなものを見ます。

いったん見始めても、面白くなければ、すぐにチャンネルを変えます。

眠くなれば、テレビの電源を切って、リビングルームを後にするかもしれませんし、テレビは面白くなさそうだからゲームでもするかとなれば、テレビを切って、ゲームを始めるでしょう。

一般的には、テレビが“captive audience”(囚われの聴衆)を持つことはありません。

テレビ番組は、コンサートのような意味合いで、囚われの聴衆を作り出すことはできません。


また、いわゆる「大道芸」も“captive audience”(囚われの聴衆)を持つことはできません。

大道芸は、道端や広場の一角などで、アーティストがパフォーマンスをします。

事前のチケットがあるわけでもなく、一定の座席があるわけではありません。

アーティストがパフォーマンスをしているのを見て、自然に立ち止まります。

よほどの「追っかけ」がいれば別でしょうが、大道芸のアーティストは、いつも観客がゼロのところからスタートします。

通りがかりの人は、パフォーマンスが面白そうなら足を止めて、聴衆となります。

立ち止まって、しばらく聞いてみて、面白くなければ、すぐに立ち去るでしょう。

そのパフォーマンスをずっと見ていたいと思う人だけが、その場に残って聴衆となります。

大道芸のアーティストは、常に、聴衆、そして、聴衆になるかもしれない人を魅了して続ける必要があります。

コンサートの際のように,“captive audience”(囚われの聴衆)に甘えることは、許されません。


翻って、教員について考えてみましょう。

教員もまた、”captive audience”(囚われの聴衆)を相手に授業をします。

教員が教室で授業をするとき、そこには生徒が決められた席に座っています。

生徒たちは、原則として、授業中に席を立つことは許されません。

教師が話す時は、黙って教師の話を聞くことが求められます。

学び合いやアクティブ・ラーニングといった考え方で、生徒同士の学習活動も増えてはきました。

しかし、教師というパフォーマーが教壇で演じる時は、まだまだ、生徒は、“captive audience”(囚われの聴衆)です。

生徒が教師の授業を退屈だと思っても、つまらないと思っても、生徒は立ち去れませんし、授業の「電源をオフ」にもできません。

授業時間が続く限り、生徒は、そこに「囚われた」ままです。


大道芸のアーティストなら、通行人の注意を引き、しばし立ち止まらせる語りと表情を持っています。

大道芸のアーティストなら、いったん立ち止まった通行人を聴衆に変え、パフォーマンスが終わるまで、立ち去らせない語りと表情を持っています。

その語りと表情という魅力がなければ、聴衆を創れませんし、聴衆を保持できません。

教師は、“captive audience”(囚われの聴衆)になっている生徒が相手です。

つまらない授業をしても、生徒は立ち去りません。

授業時間、教師が何をしても、生徒はそこに「囚われて」います。

教師の語りは、この意味では、常に語れることを保証されています。

生徒が“captive audience”(囚われの聴衆)であるが故に、しばしば,教師は、語りを磨かなくなります。

しかし、真実はどうでしょうか。

確かに、生徒は物理的には、「囚われの聴衆」です。

身体は、席に着くことを強制されています。

ところが、生徒の「心」は縛れません。

身体は席に縛り付けることはできても、心は縛り付けることはできません。

生徒の心は、決して、“captive audience”(囚われの聴衆)になることはありません。

生徒の心は、大道芸の時の通行人と同じです。

授業に、教師の語りに興味があれば立ち止まり、興味がなければ立ち去っていきます。

学習規律は強制できても、学習意欲は強制できません。

学習意欲の点では、生徒は、決して“captive audience”(囚われの聴衆)にはできません。

だからこそ、教師には大道芸のアーティストのような話術や表情を身に付けていただきたいのです。

彷徨える生徒の心を惹きつけて聴衆にし、それを保持し続けて欲しいのです。

表面的な、身体的な“captive audience(囚われの聴衆)”に甘えることなく、教師の語りと表情、授業力で生徒の心を惹きつけ続けて欲しいのです。

それが,子供たちに興味・関心を抱かせることですし,子供たちに意欲を感じさせることでもあります。


“captive audience(囚われの聴衆)”は,話し手に,その場では,根拠のない自信を与えます。

聞き手は,見た目には,話し手の話を聞いてくれているそぶりをしています。

テレビや大道芸では,それができません。

つまらなければ,まさに,「秒単位」で,物理的にも見てくれなくなります。

でも,学校の教室などでは,子供たちの身体は,物理的に,“captive audience(囚われの聴衆)”であっても,子供たちの「心」は,囚われていません。

子供たちの心は,自由に彷徨えます。

その子供たちの心を,惹きつけ,興味づけ,動機づけ,意欲付ける語り・指導・授業をするのが,教師の仕事です。

いつも,“captive audience(囚われの聴衆)”に話をして満足しているようでは,面接や人物試験で,面接官の好感・共感・好印象を勝ち取って,高得点・合格を勝ち取るのは無理です。


確かに,面接官も,ある意味では,“captive audience(囚われの聴衆)”です。

面接の最中,受験者が話しているときに,面接官は席を立つことはできません。

物理的には,面接官は,受験者の話を聞いている必要があります。

ただ,面接官が,本当に,興味・関心をもって,好意を持って聞いてくれているかは,受験者の語り・語り方によって変わってきます。

面接官が一生懸命聞いてくれているようなそぶりをしても,内心は,まったく,好感も,共感も,好印象も感じていなくて,「この受験者はダメだな!」と思っているかもしれません。

面接官が,“captive audience(囚われの聴衆)”だといって,甘く考えてはいけません。

面接官の聞いているフリに甘えてはいけません。

面接官の好感・共感・好印象を勝ち取り,あなたのことを気に入ってもらって,高得点を付けてもらい,合格させてもらうことが,あなたの目的です。

面接官の心を魅了することが合格につながるということを忘れないようにしましょう!


常に,人を魅了する語りと語り方を実践していきましょう!


レトリカ教採学院
河野正夫

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?