『永遠の故郷ウクライナを逃れて』翻訳の裏話①
皆さま、はじめまして。難民映画祭広報サポーターの青井夕子です。私は日本映像翻訳アカデミー(以下JVTA)で映像翻訳を学び、この度、『永遠の故郷ウクライナを逃れて』の字幕制作に関わる機会をいただきました。
9人の翻訳者が一丸となってゴールを目指したこの体験は、想像をはるかに超えたすばらしいものでしたので、この場をお借りし、「翻訳作業の裏話」としてご紹介させていただこうと考えました。
そして1人でも多くの方にこの作品を視聴していただけたら、広報サポーターとしてこれ以上の喜びはありません。
『永遠の故郷ウクライナを逃れて』
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翻訳チームについて
『永遠の故郷ウクライナを逃れて』の字幕制作は9人のボランティア翻訳者が行いました。参加資格が与えられるのはJVTAの英日コース(英語から日本語へ翻訳する技術を学ぶ課程)の修了生です。
翻訳チーム編成のための選抜試験が行われ、それを突破したメンバーが集結しました。集結とは言いましても、翻訳者は全員在宅で、字幕制作ソフトを使って翻訳作業を行います。コミュニケーションを取るのはすべてネット上で、日本全国、また海外に在住のメンバーと直接会うことはありません。
そのような中で、プロデビューはしていたものの、まだ多くの経験を積んでいない私は、突然チームリーダーに任命されガタガタと震えていました。でも目の前には日本語字幕を付けられようと待っている映画があり、PCの向こうにはやる気満々の8名がいます。そして、その向こうには、今この瞬間にもつらい思いをしている難民と呼ばれる状況におかれた人たちがいるのです。
それを考えた時、これはもう、ただひたすら前に進むのみと腹をくくりました。虚勢は張らず、ありのままの自分でいることにしました。「経験も自信もない、名ばかりの頼りないリーダーですが、皆さんと一緒に頑張ります」とあいさつし、成功させるためには全員でサポートし合うチームにしようと、決心しました。
目指すべき字幕の在り方について
映像翻訳の技術は、翻訳者それぞれが懸命に学んできました。大人になってから自らの意思で学び得た知識は、学生時代のそれとは深度も濃度も本気度も違います。ただこれまで、翻訳は1人で孤独に行うものという認識で勉強してきましたが、今回は9人チーム。
翻訳とはいえ、日本語には個性が滲み出るもので、9人いれば9つの個性の凸凹ができてしまうはずです。それをどうすれば、1つの作品として統一感のある字幕にできるのか、JVTAの日本語表現クラスを担当されているM講師に相談させていただきました。この時にいただいた次の言葉が心に響き、私の中の確固たるものとなりましたので、ぜひ紹介させてください。
1つは、「視聴者が作品に集中でき、見終わったあと感動以外何も残らない、字幕を読んでいた記憶さえも残らない、それが目指すべきいい字幕」であるという言葉。そしてもう1つは、「制作者の意図をくみ取り、自然で流れるような違和感のない日本語で、話し手の思いがこもった言葉を、何も加えずそのまんま出す、それができたら大成功」という言葉です。メモも取らず口頭で聞いただけでしたが、今でもはっきりと記憶に残っています。
そして、難民映画祭広報サポーターでもあるJVTA広報の池田さんは力強くこうおっしゃいました。「難民映画祭の字幕制作チームは、ものすごい熱意を持った翻訳者が集結している。そんな皆さんと共に行うチーム翻訳はすばらしい経験になるはず」
この言葉を聞いた瞬間、自分の中に使命感が生まれるのを感じ、その熱が最後まで冷めることはありませんでした(今も熱いままです)。このM講師と池田さんからの言葉はすぐにメンバーに共有しました。全員がこの「目指すべき字幕の在り方」を念頭においた状態でスタートを切ることができ、とても良かったと思います。
「そのまま」伝えることの難しさ
翻訳者である私たちの仕事は、制作者と登場人物の思いや言葉を日本の視聴者にそのまま伝えることです。当たり前と思われるかもしれません。ところが原語の違う言葉を「そのまま」置き換える作業は、とても難しいものなのです。
映像翻訳は、ただ英和辞典を駆使して訳せば終わりというものではありません(もしそうであればAIで十分です)。翻訳者は話者の言葉の奥に広がる背景を徹底的に調べ、その人物が経験したことを可能な限り理解し、気持ちを感じ取った上で日本語に訳していくのです。
ロシアによる軍事侵攻によって、ウクライナの故郷を離れることを余儀なくされた方たちは皆、一見淡々と語っているように見えますが、その言葉には、怒り、悲しみ、不安、そして恐怖といった感情があふれていました。平和な日常を送っている私たちの想像を絶する体験をした方たちの言葉です。
私たちは、想像力とリサーチ力を駆使して情報を補い、一番近いニュアンスを持つ日本語をひとつひとつ当てていきました。無駄なセリフや深く考えずに訳したセリフは、本当に、ただの1つもありませんでした。
チームの柱について
字幕制作に必要なのは映像と台本、そして制作者の思いを理解することです。翻訳者は常に制作者の思いに沿った言葉を選んでいかなければなりません。チームのサブリーダーであるKさんが、実はプロのライターさんであるという情報を得た私は、翻訳作業が始まった初日に「ハメラ監督の思いをチームで共有できる文書」を作っていただけないかと、(恐る恐る)お願いしてみました。
監督がどのような気持ちでこの作品を撮影したのか、どういう方向性に持っていきたいのか、それを示す羅針盤を皆が共有できていれば、たとえ1人が翻訳に迷ってもすぐに正しい進路に戻れるはずと考えたのです。Kさんは10秒後に「かしこまりました!」と快諾してくださり、超多忙な中、綿密なリサーチを行い『マチェク・ハメラ監督:映画「In the Rearview」にかける想い』という文書を作成してくださいました(“In the Rearview”は、『永遠の故郷ウクライナを逃れて』の英語のタイトルです)。
そしてこれが最後まで「チームの柱」として、寄りかかればいつでも監督や登場人物の思いを確認でき、情報の取捨選択や訳語選びで迷った際にもヒントをくれるものとなりました。この文書は、下線が引かれたタイトル部分をクリックするとリンク先に飛んで読むことができます。ぜひご覧になってください。きっと、私たちの本気度を感じていただけるはずです。
リーダーの役割
リーダーとして最も大切な仕事は、全員が計画的に気持ちよく翻訳に集中できる環境を整えること、と考えました。そのためには、各自の翻訳担当パートと、1か月にわたる作業期間の詳細なスケジュールを決めることが重要でした。ああでもない、こうでもないと悩むばかりでなかなか決められない私をリードしてくださったのが、てきぱき、はきはきしたサブリーダーのKさんです(とてもいいコンビだったと思います!)。
まず担当パートを決める際に一番重要なのは「公平さ」だと考えました。配布された台本のセリフには1~719までの数字が振られていましたので、それを翻訳者の数、9で割り、1人80個のセリフを名前の順に割り当てることにしました。そしてスケジュールもざっくりではなく、きっちり決めました。
前述のとおり、チーム翻訳では個性の凸凹を平らにして字幕に一貫性を持たせる必要があるため、その作業に多くの時間を割り当てねばなりません。お互いの翻訳をチェックしてコメントし合い、それに基づいて修正していく作業です。
過去にこの映画祭に関わったチームのスケジュールを参考にさせていただき、1回目の相互チェックは自分の前のパートを重点的に、2回目は自分の後ろのパート、そして3回目以降は全員で全員のパートを隅々までチェックしていきました。
「違和感がある」や「こうした方がより分かりやすいと思う」などの意見を言いやすい雰囲気づくりは特に大切と考え、コメントには理由と代案も添えていただけるようにお願いしました。全員でコメントし合い、訳をブラッシュアップしていく過程は本当に学びの多いすばらしいもので、これぞチーム翻訳の醍醐味といえるものでした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。パート②では、翻訳の際の「思いがけず大変だったこと」についてお話したいと思います。翻訳中に苦労した、少し細かいポイントなどについてお伝えしていきます。
映画に興味をお持ちの方も、翻訳に興味をお持ちの方も、それ以外の方も、ぜひぜひ、読んでいただけましたらうれしいです!
広報サポーター 青井夕子