Like,or not likeの子どもたち

↑の記事を読み、少し考える。

最近の子どもを見ていると、お父さん・お母さんが大好きな子が多いなと感じる。子どもを叱らない(叱れない)親が増え、優しく接してくれるのだから、親が好きな子が増えているのも、当然だろう。親と子の関係が代わり、親密な友達のような関係になるのは、もっともなことだ。

これには功罪あるが、コミュニケーションの巧拙でいうと、子どもたちが対人関係を好き・嫌いではっきり分割するようになった点が気になる。両親は好きだが、知らない大人は嫌い(苦手)、だから話しかけられても喋らない。私が子どもの頃にもあれこれ言ってくるうるさい大人はいて、苦手意識はあったが、それでも話しかけられれば、何かは答えていた。基本的に大人は怖いものだったし、優しくしてくれればなついたが、ベースは「よく分からない大人」だった。だから苦手ながらに、幼くながらコミュニケーションを取ろうとした。

挨拶がその端たる例だ。道で大人に挨拶されれば答えていた。たまに学校で「地域の人から子どもたちに挨拶したが、返答がないという話があった。挨拶されたら、きちんと挨拶を返しなさい」という指導もあっていた。田舎の学校で都会に比べれば素性のはっきりしない大人が少ない、ということは大きな理由ではある。たまに「不審者が出没した。注意して」という喚起もあったが、基本はコミュニケーションを返すという教育だった。

今では学校も保護者も、指導の基本は「知らない大人とはコミュニケーションを取らない」だろう。子どもを守るためには、必要な指導だと思う。しかし「安心できる・顔見知りである」と「知らない・あやしい」の間にある大人への対応、挨拶されれば返すというラインが、ぐっと引き上げられたことは、子どもたちのコミュニケーションの選択肢を狭めてもいる。

知らない大人を排除するのはまぁいいのだが、このラインの引き上げは、子どもたちどおしのコミュニケーションでも見て取れる。好きな子とはよく遊ぶが、嫌いな子・苦手な子とは距離を取る。むしろ、排除する振る舞いを選ぶ。好きでも嫌いでもない子も、なんとなくノリが合わないから、好きな子だけで別に遊ぶ。好きな子も少しでも喧嘩すると、一気に嫌いな子のカテゴリに入れ、距離を置いてみるという選択肢を持てない。

知らない大人への警戒心を育てるのは必要なことだ。よく知っている、好きな大人からの愛情を求め、なつくのも必要だろう。しかしコミュニケーションの問題は好きな相手との関係から頻繁に生まれることを知り、その問題へ対応として一気に嫌いになるのではなく、好きでも嫌いでもない、という関係へいったん置いておく、という学びも必要だと思う。

その学び始めとして、挨拶はしてたまに一言二言交わす大人というのも、悪くはないように思う。

あなたの心のスキマが埋まりましたら、ソーレッ!エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!あなたのいいとこ見てみたいっ♡エイヤサッ!エイヤサッ!エイヤサッ!