「Aロマ」「Aセク」という自称

「Aロマ」「Aセク」を自称する人たち

「Aロマ」という言葉がある。「アロマンティック」の略(→Aロマンティック、Aロマ)で、他人に対して恋愛感情を持たない人を指す言葉だ。
同じように「Aセク」という言葉もあり、「アセクシャル」、つまり他人に対し性的な欲求を持たない人を指す。

Twitterを眺めていると、プロフィールに「Aロマ」「Aセク」と記載している人を見かける。私の体感だが、若い(と思われる)女性が多い。そこでこの文では、SNS上で自分をAロマ・Aセクと自称する10代~20代の女性を、「A子さん」と仮称する。

「Aロマ」という単語を初めて聞いたのは、LGBT「ブーム」の時だ。ネット上でAロマに関する記事をちらほら見かけるようになり、Twitterでもプロフィールで自称する人、A子さんが増えていく。

A子さん繁殖の少し前だったか、自称「繊細さん」も増えた。HSP(Highly Sensitive Person とても敏感な人)を「繊細さん」と呼称した本がベストセラーになった。もちろん私も繊細さんなので、買った。

「繊細さん」はA子さんに比べると性別・年齢の幅の広い人々が話題にし、自称していた。DSM(精神障害の診断および統計マニュアル)という米国の精神医学者が使う診断マニュアルの分類上ではないようだが、HSPの専門家という人もいて、「正式に」診断(判断かもしれない)されうる。もちろん、多くの人は精神医学者に問うことなく、自分を「繊細さん」だと分類した。

「繊細さん」の自称に対して、賛同なり、違うんじゃないかという意見を持ちやすい。「繊細さんはこういう人」という一般的な通念があり、自称する人・その自称を聞く人が共通理解をしやすい。

男性と性的な関係を持っている男性がいるとする。身体的な性や性的自認などの問題はひとます保留する。「性的な関係」も、通念の通りで良い。その関係を知った人は、彼らをゲイと考えるだろう。

さて、恋人はいるが、性的な関係を持っていない人がいるとする。その人を「Aセク」とあなたは考えるだろうか?そうは思わず、「奥手なのか」「恥ずかしいのか」といった風にとらえる。

「Aセク」という概念になじみがないから思いつきにくい、という点もあるが、「性的な欲求がある」のは「性的な行動をする」事から類推しやすいが、「性的な欲求がない」のは「性的な行動をしない」事から類推するのは難しい。

ましてや「性的な欲求はないが、性的な関係を持つ」人はどうとらえればいいのか。お金で身体を売る、愛情の無い結婚で子どもを作るため、相手が望むから相手をする、誰もが「Aセク」と自称しうる。

短期化する自己認識

時間の流れを考えるとより混乱する。ある女性が愛する男性とめぐりあい恋愛関係・性的な関係となる。この時点で彼女は「Aロマ」でも「Aセク」でもない。しばらくして男性から別れを告げられ、ショックで誰との恋愛も考えられなくなり、「Aロマ」「Aセク」となる。気晴らしに飲みに行ったバーで別の男性からナンパされ、性的な関係を持つ。セフレぽい関係となり、「Aセク」でなくなる。次第にその男性が好きになり、「Aロマ」でもなくなる。

昨今のLGBTの運動は、ゲイやレズビアンがこれまでいじめられてきた(そしてそのいじめは今も続いている)歴史に対しての異議申し立て、という意味が大きい。そうした性的少数者(セクシャルマイノリティ)が男女間の恋愛を前提とする社会に対して、異性愛と平等の権利が欲しいと訴える事は、当然だ。

「Aロマ」も「Aセク」も歴史的に考えれば、「家制度」(難しくいえば家父長制)の中で性別役割分業を押し付けられてきた人々の中に同様の気持ちはあったはずだ。結婚するのが当たり前といわれる社会において、望まない相手と結婚し、望まない性的な関係を持つ生活は、「Aロマ」「Aセク」としての自分を意識する毎日だっただろう。

「A子さん」がそうした人々をどう考えているか分からないが、結婚して望まない性行為の毎日の中で、自分の「Aセク」を痛感している、という事例は多くないようだ。A子さんたちのTwitterを見る限り、「好きな相手ができない。私はAロマなのでは?」「付き合っている相手はいるが、ときめかない」といった発言が多い。

A子さんたちの自称が、なぜ短期的な自己認識によって行われるか。まず考えられるのは、A子さんたちがおおむね「若い」からだ。A子さんたちは若いゆえに、人生の経験が当然少ない。自分を語る言葉が少ない。彼女たちを取り囲む世界は、「恋愛」(恋愛マンガ、恋愛ドラマ)にあふれている。プラスであれマイナスであれ、恋愛に対する距離はA子さんたちにとって、自分を決める要素となる。誰かとの交際経験がないならば、なお良い。他人からも、そして自己認識としても、彼女たちへの「Aロマ」「Aセク」という判断を否定しづらくなる。

こうした短期的な視点は、A子さんたちが「若い」からというだけではない。社会学者のリチャード・セネットは現代の特徴を、「ノー・ロングターム(長期思考はだめ)」という言葉で表した。人格の形成は本来は長期的な積み重ねの結果だが、「今行動し、今習慣を作り、今人格を成長させよ」と強迫され続ける。

自分語りが求められるSNS

短期的な成果を求められる社会では、途切れることのない自己点検を求められる。自分が何ができ、何が好きで、何が嫌いか。自分が自分を振り返った結果は、自分の中にしまってすむわけではない。

「オーディット文化」という言葉がある。オーディット(audit)とは「監査」、企業の経営や資産状況などを検査するといった意味だが、そこから転じて「説明責任」が求められる風潮を示す。私たちがコンビニで弁当を買うとする。どれだけのカロリーがあり、原材料はこれこれ。販売されている商品の説明はありがたいが、それだけに留まらない。

芸能人のスキャンダルが発覚する。どういう状況で何が行われ、どう反省しているか、関係者を傷付けたことに対して、どう思っているのか。説明することが求められる。
正確にいえば、「私たちはあなたが関係者を傷付けたと考えているが、当然あなた自身が関係者を傷付けたと考えている、その傷付けたことをどう思っているのか」、説明することが求められる。説明責任は客観的(≒「常識的」)な基準を元にした説明を要求する。

SNSで説明責任が求められるにしろ、「Aロマ」「Aセク」、恋愛・性愛という、プライベート過ぎる語りを、誰もが閲覧可能のプロフィールの中心部に書く必要があるのか? 実生活でゲイであることを隠している人が、ゲイであるゆえの悩みを語りたい、実生活で周りにいないゲイの友人を見つけたいという場合なら、自分はゲイであることを明記した方が便利だろう。SNSでパートナーを探す人も多い。

しかし、「他人に恋愛感情を持たない」のが「Aロマ」だとすると、恋愛相手を探す「Aロマ」は、矛盾を抱える。恋愛をするのが当然と考えられる社会でわずらわしさを避けるための偽装の恋愛相手を求める場合は考えられるが、自分で興味がない・理解できない恋愛によって、自分が偽装の恋愛を行うとするなら、むなしい試みのように思える。LGBTブームの1つのチャレンジが自分が望まない恋愛・性愛を強制されないようにすることだとするなら、同性婚に賛同しつつ「Aロマである自分は偽装恋愛・偽装結婚する」のが正解だと考えることは、奇妙な両立だ。

「A子さんたちはかまって欲しいから流行りのワードを自称する」と偏見混じりに考えることもできるが、A子さんたちが短期的視点だとしても「Aロマ」「Aセク」を自称することには別の意味があるように思う。それは恋愛・性愛にあこがれる(同時に嫌悪する)ゆえの前恋愛・前性愛としての自負かもしれないし、男性嫌悪の印でもあり、または単なるナンパよけなのかもしれず、「クリスマスが近づいているけれどAロマなんで一人で過ごしますし、非モテじゃないんで」という訴えなのかもしれない。

先に述べた通り、「ゲイである」という自称は、考え・行動によって肯定される。しかし「恋愛感情を持たない」という自称は、考え・行動によって、常に裏切りの可能性を秘めている。「今・ここ」にしか自分は存在しないという意識がその自称に込められているとすれば、はかない花のほころびが、SNSにはあふれている。

参考図書

愛は技術であり、愛されるのを待つのではなく、愛することを身に付けよ、というエーリッヒ・フロムの古典。自分が「Aロマ」かもしれないと悩んでいる人は、読んだ方がいいかもしれない。
と書いてふと思ったが、「愛は愛するという技術である」というまとめは、オーディット文化的というか、自己研鑽によって道は開く、的な感じもある。

「ノーロングターム」「オーディット文化」という言葉は、政治学者の宇野重規先生の下記の本で知り、使いました。ノーロングターム(誤用)の極みです。


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