ちびまる子ちゃんのこと

最近ちびまる子ちゃんを読み返していた。
私はオタクにならない、つまり同人誌やアニメを見ないという強くしょうもない決意をかかえて生きてきて、たぶんこのまま死ぬのだけれど、ちびまる子ちゃんは昔アニメで見ていた。こんな感じでも知っているアニメといえば、サザエさん、ドラえもん、ちびまる子ちゃん、クレヨンしんちゃんくらいのもので、この辺がいわゆる戦後日本の国民的アニメ、ということになると思う。
これらは、登場人物が主に家族とクラスメイトで構成されている点が、こち亀、コナン、ドラゴンボール、エヴァ、ワンピース、鬼滅とか、国民的アニメより場合によって売上げ面や人気、影響で上回る各種アニメとは、性質上決定的に違っていると思う。

それでちびまる子ちゃんという漫画をたぶん20年振り以上に読み返してみて、思ったところを書いてみる。
まず小学校三年生の女性が主人公でこうした国民的アニメの位置というのはやっぱりすごい。フェミニズムとして語られているのは私は知らないので知っている人は教えてほしい。
ちびまる子ちゃんの2巻では、岡田あーみんとの合作、「まる子、デパートへ行く」が掲載されているけれど、岡田あーみんパートはガチャガチャとテンションの高い「ギャグ」と括弧で括ってしまいたくなるノリで、今読むと正直かなりつらい。文章でいえば昭和軽薄体にあたると思う。

それに比べて、ちびまる子ちゃんは今でも全然読める。それはもちろん私が小さい頃に読んでいたからだと思うけれど、ちびまる子ちゃんの醒めた感じが、今にも全然生きていると感じる。
私はいわゆる少女漫画史、というものをほとんど知らないけれど、ちびまる子ちゃんに先攻する、70年代に主に活躍した世代の漫画とは、やっぱり全然違うと思う。少女漫画を文化の位置に押し上げた天才たちと称される人たちへの賛美は、たいてい文芸的な作家性、耽美、同性愛、SF的なスケール、物語の構築性などだと言われがちである。退廃的で美しい人物、立派な意志に殉じる物語、懊悩を描くことによって、少女漫画の表現は「そこまで到達した」と称されてきた。
ちびまる子ちゃんはそうしたものの否定である。出てくるのは、ひたすら平凡で怠惰で間抜けな主人公と家族、友人たち。ちなみにサザエさんの波平とちびまる子ちゃんのヒロシは、立場上同じ父を担っているが、戦後の家父長制の解体により、ほとんど真逆のキャラクターとなってしまった。花輪君が先行する少女漫画のパロディとして描かれるが、そのキャラクターもどんどん変遷していく。
しかし、ただ平凡で怠惰で間抜けというわけではなく、「・・・って一体」という自虐、代表的な冷静な自我へのツッコミがあまりに斬新だったのだと思う。
さっきの岡田あーみんの漫画と比べると、それまで、ギャグ、面白いものといえばテンションが高いドタバタだったはずだ。ちびまる子ちゃんの最高傑作は、個人的には70話の「まる子は盆栽好き」だと思うけれど、これは盆栽に興味をもつまる子が、すったもんだあって墓で拾った苔の石をヒロシと友蔵にプレゼントして、まったく要らない2人は、気まずいながら喜んだ振りをする、という話で、これは、まる子は他の人物たちを笑かせようとも思っておらず、テンションこそ上がるシーンはあるが、それは盆栽を始めるためだけのテンションである。そしてただ、周囲とノリがズレていってしまう状態を描いている。

ここには「私って一体・・・」という内省的なツッコミ、作者からの、このキャラが置いてかれている状態が面白いんですよというフォローも必要とせず、展開だけで読者にそう突っ込ませる仕掛けができあがっている。めちゃくちゃ高度なコントになっていると思う。
ほぼ間違いなく、さくらもももこは連載当初は、その笑いの構造に自覚的ではなかったと思う。ちびまる子ちゃんは、連載時にキャラクターが増えまくりまた変わりまくるが、傑出しているのは永沢君、野口さんだと思う。永沢君、アンチ少女漫画、野口さんは、お笑い好きという意味で。
クラスメイトで登場時からほとんど変わっていないのは、たまちゃんとハマジである。この2人には実在のモデルがいる。原作での中盤から、たまちゃんは「タミー」としてもう一人のファンシーな自分を演じるし、ハマジはアニメの後半では常識人になっている指摘もあるが、それは実在するデフォルトの人間像から変わらなかっただけだと思う。
つまり「主人公の親友のしっかり者」と「クラスのお調子者」は普遍的ということ。

ちびまる子ちゃんは80年代を描いた漫画で、ビートたけしも漫画に出てくるが、当時、少女漫画で「お笑い好き」というキャラクターが他にいたかどうか私はよくわからないが、たぶんいなかったと思う。スピンオフの「永沢君」から逆輸入されたキャラクターである野口さんは、明らかにアニメ化され国民的となっていってしまったまる子のオルターエゴだ。友だちはおらず、暗く、深夜ラジオを愛聴し、言葉の力を持ちクラスメイトから一目置かれる存在。ちびまる子ちゃん以降のまる子を描いている「ひとりずもう」などは、むしろ野口さんの延長にある。

野口さんとまる子は、ただお笑いが好きという共通点だけでつながり、それだけでなく、むしろ友情の構築に積極的なのは野口さんのほうである。テレビのスペシャル番組があることを伝えるためだけに、野口さんがまる子をストーカーする回まである。
今でこそ、お笑いは圧倒的なコンテンツとなり、芸人はめちゃくちゃモテるけれど、80年代の静岡県で、深夜ラジオまで聞くお笑い好きの女子小学生はどれだけいたのか、たぶんほとんどいなかったと思う。
ちびまる子ちゃんはそういう意味で、ちょうど、お笑いが「お茶の間」を制していく境界にいる。
「クラスの人気者」であるハマジが披露するのはもっぱら(周囲の人の)「モノマネ」で、クラスの大爆笑を誘うものの、野口さんが、そして(確か)まる子もハマジのモノマネで笑うシーンはない。そういう、戦後から令和まで続く小学生ギャグのレベルには彼女らはいない。
むしろ2人が爆笑するのは、藤木が体力測定の遠投で力み過ぎて50センチの記録を出したシーンである。たまちゃんは、野口さんとまる子がそれでなぜそんなに爆笑しているのかわからない。まる子は明らかに、みんなと感性がズレている。



しかし、まる子一人だけで藤木のミスを笑い転げていたら、それは単純に狂気の性悪であり、クラスから浮いている変な奴となってしまう。笑いのポイントだけがネクラだけど確かなセンスをもつ野口さんと共有できているのであり、同時にたまちゃんという常識人と友情を保てるまともさを保証するには、つまり、センスはいいけど友だちも多いことを表現するには、センスを担う、けれど友だちはいない野口さんとも仲良くなり、センスは並で一般代表のたまちゃんも必要となる。

藤木のシーンで、わざわざ野口さんから「さくらさんあれ、、、」とまる子に声をかけさせ、「やっぱり面白いよね」とまる子は追認しているだけである。このあたりの、まる子を嫌わせないテクニックはすごい。


そして永沢君である。
これまでもそしてこれからも、永沢君のようなキャラクターが少女漫画にいたことがあるのだろうか。私はよくわからない。お調子者ハマジも卑怯者藤木も、イケメン大野杉山も、バカで善良な山田も、誇張されてはいるがキザで金持ちの花輪君、委員長の丸尾君も類型はたくさんいる。モブらしい山根や関口、小杉、ブー太郎も、たくさんいる。しかし永沢君はいない。

永沢君は、まず火事の被害者である。そしていじけている。俺なんて、という意識が常にある。それは藤木も同じだが、藤木には向上の意志がある。こんな自分ではダメだ、と常に考えている。
永沢君にはない。しかし永沢君には、人の感情を見透かす観察力がある。だからこそ相手のズルさや計算には誰よりも気がつく。冷静な感じで、いかにもな正論を述べることができる。そして自分はもっと評価されるべきだと常に感じている。
永沢君のことは、もっと考えてみたい。

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