怖いものが怖かった頃

怖いものが怖かった頃

人間には、怖いという感覚がある。
自分は小さい頃、とんでもない怖がりだった。
むしろ、怖いという感覚が怖かったのかもしれない。普通は、小学生高学年ともなれば、怖い感覚を楽しむことができる。「怖い話」やお化け屋敷、ホラー映画などが一気にエンタメとして入ってくる。大人たちもまた、子どもをそういった類のもので怖がらせて楽しむ。子どもたちも、もっともっと、と怖いものを欲する。そして怖いものを拒否するや否や、情けないビビりとして嘲笑してくる。
自分はだいたいにおいてマジョリティ的立場としてへいへいと生きてきたし、マイノリティの感覚というものを理解した気になってはならんと思って生きているが、もしその感覚を想像するとしたら、ホラー系を強要してくる、小学校4年次のS先生やクラスメイトの顔が起点になってくるだろう。俺は今でもあのS先生の、冬のお昼休みにストーブのクラスメイトを集めて「これから怖い話するよ」と言ったときのにやけ顔を忘れないし、お墓参りをしたらおばあさんがお墓を掘り起こしていた、という話の詳細、そして自分は絶対聞きたくない、と宣言して教室の隅に陣取り、怪談が聞こえないようにワーワーと叫んでいたこと、クラスメイトたちが「なんなあいつ、きっしょ」と笑っていたことを完全に覚えている。
あるいは子ども会の遠足で、自分は完全にそれだけはやめてくれ、と言ったのに関わらず、バス内に設置されたテレビで放送された「学校の怪談」の冒頭、夕方の校舎にバスケットボールが跳ねている映像、そしてそれを避けるべく眺めた車窓の向こうの工場の様子、エキスポランドのお化け屋敷のデコレーション、小学校の卒業式後、クラスメイトの家で深夜、それだけは勘弁してくれ、と言ったのに関わらず「リング」の上映会が実施され、いたたまれなくなり家を抜け出し、真っ暗な公園のベンチで、スマホもゲームもなくひたすら体育座りをして2時間待っていたこと。どれもこれも1人だった。

「怖いもの」むしろ「怖いものを怖がる感覚」は、たいてい夜にやってくる。
当時の自分は、怖いものに昼間触れてしまうと、夜はほぼ眠れなくなった。そして、自分を怖がらせた連中はグースカ寝ている。その寝顔が本当に許せなかった。理不尽だと思った。連中は、怖いものに触れたときはわーきゃー騒いでいるくせに、本当のところ怖がってなんかいない。他人と自分を比較すると不幸になるとはよく言われるが、こればかりはどうしようもない。お前が怖いものを見せたんだから、せめてお前も眠れないくらい怖がるならいい。ひどいことをした奴らは、誰もそんなこと覚えていない。なんだそれは。

自分にとって、怖いものとは可能性への自覚だった。怖いものが、現実でもそのまま再現されるとは思わない。しかし、似たようなことがありえるかもしれない。ありえないという証拠は何もない。今後ろを振り返ったら、そこで誰かがこちらを見ているかもしれないし、目を一瞬でも閉じて開いたら小さい子供が乗っかっているかもしれない。ありえなくはないのだ。そして今でもなお、真っ暗闇にお化け屋敷は存在し、なかのオモチャは動き続けている。眠りから覚めたらもしかしたら自分はそこにいるかもしれない。だから眠れやしない。母親にこの恐怖を相談しても、そんなことあるわけがない、と一蹴されて終わった。いまだに納得はできていないが、この道はやがて失調へと連なっていることは、今ならわかる。20歳を超えても、ドアを開けるのが怖くて数時間じっとしていたこともあった。本当の本当の本当は、どんなことでもありえるが、可能性に取り憑かれてしまうと何もかもわからなくなっていく。

とはいえ自分も30代も半ばを超えて、いつの間にか、怖いものを怖がる感覚は薄れてきた気がする。しかしそれは、強制的に怖いものに触れされてくる人がもういないからかもしれない。眠れない夜は全然ある。全然。


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