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ボリビアの大学院


出願、面接、合格、


パンフレットを受け取ってすぐ、大学院に電話して入試について問い合わせた。すると、「明日、修論計画書と履歴書を持って来てください」とのこと。「はい、わかりました」と答えて、一夜漬けで書類を作って一睡もする暇なく、翌朝、提出に行った。

「入学希望です」と言って書類を手渡すと
受け取った事務員さんが、「今日、時間ある?」と。

私が「まぁ、はい、・・・」と答えると、
事務員さんはどこかに電話をかけてその電話が終わると、
「これから面接するので、隣の建物の3階の奥の部屋に行って」とのこと。

指示に従って、面接室に入った。そこは、教授の部屋だった。


Hola. Encantada.(こんにちは。はじめまして)


何を話したかあまり覚えていないけれど20分くらい話していたと思う。

そして、「じゃぁ、君、合格ね。事務の人に、入学の手続きについて訊いてから帰ってね」と締めくくられた。他に受験している学生は見当たらなかった。


先着順?!


入学すると、私のクラスには20名ほどの学生がいた。
みんなはいつ受験したのだろう?こういうものなのだろうか。

なんとなく、とりあえず先着順、という雰囲気を感じた。

だけどそれ以上に日本との大きな違いは、書類を一から手作りするところだと思う。指定された雛型があったり専用の用紙が配られていたりということはなく、PCを開いてワードを起動して、一から自分で履歴書と修論計画書を書いた。

ボリビアで生活していると、常に、自分が自分の人生の主役のような気分になる。日本だったら枠を与えられてそこに上手におさまることを優秀というかもしれない。でもそれは、他人に支配された人生だと思う。

ボリビアでは、ほとんど何もないところから自分で作っていくのがあたりまえだった。

もちろん、自分だけの力で作り上げる100%より
先輩たちが作ってくれたものに乗っかって作り上げる100%のほうが立派なものが出来上がるかもしれないんだけれど、だけど私は他人が作った枠におさまるより、枠から自分で手作りするのが好きだった。

幸せってこういうことだと思う。

なんで私がボリビアの大学院に?

そんな幸せをもとめてボリビアへ行ったわけではないんだけれど、結果的にそうなりまして……

JICAという日本の組織からの派遣で赴任していた時に大きな事件などなどがありまして、とりあえず不幸で、とりあえずJICAを辞めたんだけれども・・・。
やり残したことが多々あったので私費(※)でボリビアへ渡航しなおして仕事納めをしていた。

※まぁ、JICAから退職金みたいなものを寸志いただけたのでそのお金で渡航しなおした、というもの。ほぼ公費みたいなもの。といっても派遣のOLさんのハンドバック代くらいの額しかもらってません!(笑)


年間90日までならビザ無しで滞在できるボリビア。

だから90日後には日本へ帰る予定で再渡航。
しかし、88日目くらいに東日本大震災が発生。やばい!
私の実家も被災したし、東京は大混乱だという。
放射能は名古屋まで危険だとWHOかUSAIDかが警告していたっけ?

だから私はもう少し長くボリビアに住むことにした。

震災の報道を見ていると、とても日本に帰って就職しようと思えなかった。
帰りたい気持ちもあったけれど帰らないほうがいいと思った。

日本の友人たちは被災地へボランティア活動へ行った様子をSNSにアップしていたり……(そんななか私は、その苦労を分かち合うこともなくボリビアに。非国民でごめんなさい、という気持ちもあったけれど‥‥→震災のときのボリビアの様子はまた別の記事にまとめます)

どうせ役立たずな私は被災地へボランティアへ行くのではなく、
しばらくボリビアで避難生活をすることに。もちろん避難民ビザなどはなく、…。いろいろと調べてみると、学生ビザが一番安くて現実的だった。

さて、どの学校に通おうか?

友人は、「あの子のお父さんは小学校の校長をしているから、在学証明書を作ってもらったら?」と言う。「書類だけ整えれば大丈夫じゃない?」と。でも、さすがに成人した日本人がボリビアの小学校に留学するかな?

無難に語学学校や大学を探した。

当時の私は、スペイン語はまあまあ話せるようになっていたから語学学校へ行っても自分のレベルに合うクラスが無かった。ケチュア語やアイマラ語など先住民語はせいぜい挨拶ができるレベルだったので、先住民語の語学学校を探した。いい具合に大学内の語学センターがケチュア語講座を開いていた。とりあえず、そこで。

……と思ったら、2回目の講義のとき「受講者が最少遂行人数に満たないからこのクラスは廃止になる」と聞かされた。

ビザ、取れないな・・・。どうしよう?どうしようもない。

と、ぼやいていたら大学院のパンフレットをもらった。

パンフレットを受け取ってすぐ、大学院に電話して入試について問い合わせた。そして、あっというまに合格したのは前述のとおり。

まるで学位のスタンプラリー

ボリビアの大学院

私が通ったのはラパスにある国立大学で、開発学の修士課程だった。
ここ→CIDES-UMSA ""POSTGRADO EN CIENCIAS DEL DESARROLLO""

 講義はどれも南からの底力を感じるものばかりで、「西洋化=発展」だけじゃないよね、というところから始まった。みんな真剣にボリビアの在り方を考えていた。そして、大学院は働きながら通うものとされており、クラスメイトの大半は国際NGOか国連系の組織に勤務していた。他に、副大統領府や外国大使館で働いている人もいたし、別の大学で教授をしている人もいた。学士は3つ持っていて社会学と心理学と文化人類学、そして修士は2つ目というような人が何人もいた。まるで学位のスタンプラリー。その先は、博士課程は海外に行きたい、そして移住したいという目標があったり色々。

(あれから10年くらいたちまして、実際に北米やヨーロッパの大学の博士課程に進んだ人は何人かいる。そしてそのままそちらの国に移民したり、夢をかなえている)

だけど私は……

 一方私は、学生ビザでの就労は一切禁止だった。ボリビアの入国管理法に「学生ビザで働いてはいけない」と明記されていたので誠実に法律を守って働かなかった。学歴は、東京の大学を卒業して学士を1つ持っているだけだった。だけど、当時25才くらいだったし童顔で実年齢より若くみられるから、「えー、1つしか大学でてないの?」なんて見下されることはなかった。むしろ、クラスメイトの多くは私のことを、日本語話者なのにスペイン語でこんなに難しいことを勉強しているなんてすごい、と尊敬してくれていた。そして私も、エリートなのにエリートぶらない彼らを尊敬していた。ちなみに彼らの年齢は、上は50才くらい、あとは20代と30代が半々くらいだった。

働きながら学ぶのが当たり前

基本みんな社会人学生なので、カリキュラムは働きながら学べるよう組まれていた。月、水、金、の夜に講義があり4週間で1つのテーマについて勉強し次の1週間でレポートを書く。そして翌週から新しいテーマの講義が、新しい先生を迎えて始まる。カナダやスイスの大学から来る先生もいた。そのたびに自己紹介する慣わしで、氏名と学位と勤務先を話すことになっていた。

政治学士ならポリトロゴ(Politologo/a)、心理学部卒ならシコロゴ(psicologo/a)、社会学部卒ならソシオロゴ(Sociologo/a)。

ただ大学を卒業しているだけでそう名乗るのは私にはぎこちなく感じられたけれど、ボリビアは医師も弁護士も国家試験や司法試験がなく、医学部を卒業すれば誰もが医師で、法学部を卒業すれば誰もが弁護士だった。同様に、経済学部を卒業すれば誰もがエコノミスタだった。

私の場合、経済学士だからエコノミスタなのだけれど、バラッサ曲線もサンクコストも忘れ切っていてエコノミスタを自称するのは気が引けたので、いつの間にかチャランギスタ(Charanguista)と自己紹介するようになっていた。

ある日の風景(個人情報は匿名加工しています)

学生A「私の名前はカルロスです。エコノミスタです。ベルギー大使館で働いています」
学生B「私の名前はマリアです。心理士です。Oxfamで働いています」
学生C「私の名前はレオナルドです。政治学士です。副大統領府で働いています」
学生D「私の名前はベロニカです。文化人類学と社会学と心理学の学士を持っています。修士は、歴史学を去年卒業しました。これが2つ目です。現在はユニセフで働いています」
学生E「私の名前はノエリアです。社会学士です。ジェンダーが専門で、世界人口基金で働いています」
私「日本から来ました。チャランギスタです。入管法で就労禁止されているので無職です」
クラス一同「Ha? (笑)」

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