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なんちゃってトレーナーになった僕

 この記事では、僕が最初にトレーナーとして働き始めたときのこと、そして、その後の人生に大きな影響を与える、トレーナーとして働くなかで気付いたとても重要な2つのことについて述べていきたいと思う。トレーナーとしての僕の人生の始まりはとにかく失敗の連続だったんだ。。

First step​

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 僕がトレーナーになった理由は前回の記事にまとめた。

 トレーナーになろうと思った大学4年の出来事からトレーナー活動を始めて、就職活動もせずにトレーナーとして活動するための会社に飛び込んだのが、僕の仕事としてのトレーナーの始まりだった。

大学は経営学部経営学科。

 高校から付属校の私立でエスカレーター式に大学まで行った僕は、案の定勉強と言われるようなこともろくにせずトレーナーになった。そこから大慌てで人の体のことについて学び始めたわけなんだが。。当時、資格なんて関係ない、実力があればプロとして認められる、そういう世界だって言われていたのもあって、とにかく実践で結果を残していくんだ!と意気込んでいた。

 勉強をどうやっていったかっていうと、その当時はとにかく「アスレチックトレーニング」とか「ストレングス」と名のつく雑誌みたいな媒体を購入したりして、その中で紹介されている手技や方法論を学ぶことから始めていた。つまり、人の体の基本である解剖学や運動学、生理学を体系的に学ぶことをせず、実践で使える「テーピング」とか「トレーニング」とかの方法論を身につけることを優先していた。

つまり、基本となる知識を体系的に学ぶことより先に、実践的な方法論に目を向けて、土台を作ることなく上に建物を築き上げていったというわけ。当時学んだスキルや方法論はいまでも活用していて決して無駄ではなかった。でも、次に気付く2つのことを解決する手段を講じるには、避けて通れない課題を残した最初のステップだった。

現場で感じた閉塞感

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 実践的な知識を優先してアスレチックトレーナーという業界に入り、感じたことが2つあった。

 まずひとつ目は、その業界があまりにも閉鎖的であったということ。僕がいた会社がそうだったのか、トレーナー界全体がそうだったのかはなんとも言えないんだけど、とにかく、排他的な空気を感じていた。

 どこそこのトレーナーはこんなことしてるから良くない、とか、あそこのやり方は良いって言われてるけどたいしたことない、とか、とにかく日常的にそんな話を聞いていた。

 NATAの学術集会の話なんか聞くと、その場で報告されるのは自分たちの業績と工夫、改善点に対するディスカッションで、情報を共有してトレーナーの業界自体の社会的立場の向上と選手のためにナレッジを日々アップデートをしていく姿勢が伺えると感じていた。けど、少なくとも僕がいたトレーナーの業界は、情報を開示することは絶対にするな、他のやりかたを認めるな、みたいな教育?洗脳?みたいなことがされていた。

これって、選手のためになんのかな??

 とにかく当時は、自分のトレーナーとしてのスキルを磨きたくて必死に努力してたけど、どこをみて仕事してるのかわからなくなるような事態に陥った。結局最初に入った会社は3年ももたずに辞めてしまった。

 最近では、「選手ファースト」って言葉が浸透しているけど、選手を中心に考えた時、するべき行動に制約を設けられている状況に大変な息苦しさを感じていた。組織に入ってそういう活動に制限が設けられてしまうくらいならフリーになろう、と思ったのが会社を出た一番の理由だった。

 今となっては、そういう状況に陥ってしまったのは自分の思考の柔軟性の欠落と対応力の欠如だと思うから、自分の外にある問題を、自分がうまくいかなかったことの原因にするような思考は誤りだと認識している。。だけど、他者を批判する言動、自分たちの業績を開示せず、スポーツ界全体の利益を生み出せない風潮は、選手の利益を考えた時大いに改善すべき余地があると感じたのが1つ目の気付きだった。

 この1つ目の気付きは、PTになってからの自分に大きな影響を与えた。医学の道に入って初めて、学会やら論文やら、学術的な活動の重要性を認識するんだけど、「誰がやっても同じようにできる」形を作り上げないと普及はしない。

 つまり、どれだけいいことやってても、普及しなきゃ、多くの選手は救えないんだ。だから、学術的な活動を通してみんなに情報を届けること、そのような活動をするために日々スタンダードな知識をアップデートすること。こういったことを根底に持ち続けられるようになった基盤が、この話の中にあった。。

個別性を考慮するのに必要な知識

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 2つ目に感じたこと。

 これが今の自分の礎を作ってくれたと言っても過言ではないのだけど、選手のリハビリテーションに関してのことだった。当時も外傷後のリハビリテーションプロトコルって欧米の事例を参考に体系化されたものが存在していたように思う。Clinical  pathみたいなものじゃないかもしれないけど、術後なんかは特に、今と変わらず術後の経過期間と、するべきトレーニングは疾患毎にまとめられたりしていた。だから、リハビリに来る選手なんかをずっと観察していたけど、なんかみんな同じことやってる。。

 まぁ、怪我した場所がおんなじで、同じ術式のオペしてりゃ、おんなじリハビリになるのはおおよそ理解できた。これって、外傷メカニズムや病態に応じて考案されたもので、選手の個別性にまでは言及されていない。

 それでうまくいく選手は良い。。けど、中には痛みで思うようにprogressionしない選手がいたり、慢性障害に対するプロトコルも原因に迫る評価方法は確立されておらず、選手の特性に応じて原因を探し当てる評価についてはモヤモヤしている。

この現状に疑問を抱いた。

 もっと個別の対応が必要なんじゃないだろうか。。どうすれば、選手の特性に応じてプログラムを変えることができて、どうすれば痛みや不調から選手を救うことができるのか、少なくともそのプロトコルに答えはなかった。その現状は今でも変わっていないんじゃないかな?

 会社を飛び出してフリーになった僕は、その時点で行き場を失った。まぁ、最初のしくじりです。笑

 どんなふうに学んでいけば自分の思うようなトレーナー像に近づけるのかもわからずに、現状を嘆いて飛び出して結果何もできないという若さ。今となっては笑える話も、当時は言いしれない不安に襲われていたんだよな。

考えていてもしょうがないから、行動しよう。

そう思って、僕はアメリカに行くことにした。なんか、日本よりアメリカのほうが進んでるって言われてるし、本場みたいな感じでなんか、一回みておく必要あるでしょ、位に思ってね。

 ただ、大したプランがあるわけではなかった。当時からアメリカで生計を立てていた姉を頼ってオレゴン大学に行ったり、地域のphysioの現場を観せてもらったり、どちらかというとアメリカのシステムをみせてもらいに行った感じだった。 

 大学時代、付属校のコーチをやっていた縁もあって、大学のコーチに誘われたから、仕事を辞めたタイミングで大学のコーチングスタッフに加えてもらっていた。大学のアメフト部は当時ハワイ大学のコーチ陣をチームに招いてコーチングしてもらっていたので、その伝手をたどって、ハワイ大学のathletic training departmentに1ヶ月くらいだったかな?インターンとしておいてもらった。

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(ハワイでは自転車で色んなとこ行ったり、ホステルで共同部屋に泊まって友人がたくさんできた。。→勉強しろ。。)

 そんな時でした。

 athletic departmentで行われていた選手サポートは、当時日本で僕がみてきたものと大きく変わらなかった。もちろん、規模は違うけど、目指すべき方向はここだな、と思えるものだった。

そこで僕はヘッドトレーナーに質問した。

痛みや不調を抱えてリハビリのprogressionがうまく行かない選手はどうしてる?

そしたら、

「そういう場合はphysioが対応するんだ」

え?

physioってなに?

physical therapist...

がーーーーん。。

グラウンドに立つ前に、医学的なリハビリテーションや処置はphysical therapistが実施して、問題に対する個別のアプローチを行った上で、その情報を共有してリハビリを進めるんだと。。

そーーーーんなことも知らなかった。。笑

俺、それ知りたい。。

そもそも僕がトレーナーになろうと思った理由は、「怪我で競技を引退する選手をなくしたい」からなんだ。だから、リハビリとか、痛くてできない、っていう状況を変えられる人にならなきゃならない。。トレーナーはそのスペシャリストだ。そう思っていたけど、physical therapistって。。

こうしちゃいられん。

 日本で、リハビリテーションという領域に携わるには?より多くのスポーツ外傷・障害のリハビリテーションを経験するためにはどうすれば良い?

 1年いるつもりだったアメリカ滞在を3ヶ月で切り上げて日本に戻った。別にアメリカで仕事したいわけじゃないし、日本の社会を変えたいんだから、アメリカで学ぶ必要は感じなかった。それより、Physical therapistとやら、日本ではどうやら理学療法士と言われる仕事をするにはどうすりゃいいのか、帰って速攻調べなきゃ。。

 単細胞トレーナー真木伸一は、こうして理学療法士の資格を取得する決意をしたわけ。。笑

 理学療法士になって、スポーツ障害のリハビリテーションの経験をめっちゃ積んで、痛みや不調を解決できる手法を身につける。これがPTといわれる仕事をする最初のきっかけとなった。

 システムみたさにアメリカまで飛んでいって、まずphysioの存在を知れたことは大きかった。この2つ目の気付きは、問題を解決する思考を身につけることにつながっている。それは解剖や運動学、生理学や評価学といった基礎医学的な知識をきちんと身に着けなければならない、という単純なことで、今でもその「基礎に対する思い」は変わっていない。これらの知識を駆使していくつもの戦略を立てていく思考の訓練こそが、選手を救うために必要なプロセスだと信じている。

実際はまさにゼロからのスタートだった件

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 このようなプロセスを経て理学療法士を志すことになり、ここから僕の勉強人生がスタートした。ようやく基本となる解剖学や運動学、生理学やら評価学を体系的に学び、その学びは僕にとって宝の山だった。今までわからなかったことがどんどんわかるようになっていく。つながっていく。こんな体験を学校に通い始めた頃からいくつもするから、学ぶことが面白いを通り越して、興奮する出来事になったんだった。

 一つ面白い話をすると、アメリカから帰った時点でもうお金がなかった。だから、入れるPTの養成校は国立(当時はまだ国立校が残っていた)か、当時私立で一番学費の安かった偏差値お高めの学校がギリギリ。

だから、そこを目指した。2月に入試があるんだけど、アメリカから帰ったのが前年の6月。7月に目標とする学校の過去問を解いたら。。

数学が0点だった。そう、僕は数学が苦手です。。

この時26歳。

ここから先のストーリーは、次回のお楽しみに(^^)

おわりに

 今回は、僕がトレーナーとしての仕事を始めて最初に感じた「閉塞感」と次に気付いた「基礎の重要性」について書いてみた。

 この2つは、今、活動する上でとても大切にしていて、選手のためにやるべきこと、良い方向に導けることはみんなで共有して全体に拡げていくこと。これがこのnoteの段階的リハビリテーションシリーズをやろうと考えた根底にある。まぁ、さんざん学術的な活動とかもしてきたんだけど、拡散という意味でこの形を選んだのも事実。

 もうひとつ、やっぱり何かを成し遂げていきたいと思ったら、基本をおろそかにしてはいけないということ。解剖なんて、深く知れば知るほど、選手の問題を解決する糸口を与えてくれる。だから、目的を達成したいと思ったら、その土台に必要な知識は何かをよく考えて、まずそれを身につけるという基本の必要性を次の世代の人にも伝えていきたいな、と思っている。だから、セミナーなどを行う時、どうしたって基本の話は欠かせない。

 基本をおろそかにして、魔法のような技術は手に入らないのだから。。

そういう意味で、僕のトレーナーとしてのFirst stepは、「なんちゃってトレーナー」程度の活動だったんだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました(^^)


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これまでに発信してきたnoteはこちら

【足関節捻挫後の段階的リハビリテーション】


【膝関節外傷後の段階的リハビリテーション】

【ハムストリングス肉離れ後の段階的リハビリテーション】


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