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ルパン三世 「殺し屋はブルースを歌う」Ⅵ 古典の面白さ

「殺し屋はブルースを歌う」は、作者の寡黙な表現を、アニメ監督の大隅正秋さんがドラマチックに演出していて、原作漫画以上の出来になっている。


脚本家を調べてみると、さわき とおる氏のクレジットがあり、同脚本家は、第4話「脱獄のチャンスは一度」第9話「殺し屋はブルースを歌う」第10話「ニセ札つくりを狙え!」の三作を担当している。

評判のよい前二作を書き、第10話も偽札づくりの天才職人と、彼を犯罪から遠ざけようとする老婦人の哀愁漂う物語が根底にあり、物語としても悪くない回。


ちなみに、時計台を舞台にしたこの回と、その次の第11話の「7番目の橋が落ちるとき」を合わせたものが宮崎監督の「カリオストロの城」の原型になっており、この回の隠れた魅力に若き監督が気づいていたとしたら面白い。

さわき氏のwikiを見てみると、「野獣たちの終着駅」、最終回予定作「ルパン故郷へ帰る」という非採用の原案が二作もあったのだけれども、もしこの二作品が採用されていたら、もっと味のある話が観れたかもしれない。

もし大隅氏が退任しなかったら実現したのかも?何となく高畑・宮崎監督のテイストにマッチしなかったせいで却下された気がしなくもない。


作家性の強い天才クリエイターは、なぜか原作に忠実な職人気質の優秀なクリエイターと相性の悪い所がある。排除する傾向にある。

さわき氏は名作に仕上げた回を担当していたのにも関わらず、他の脚本家のように高畑・宮崎体制の下では、自作が採用されることもなかった。


ルパン三世の歴史は長いので、こういう話がとても多い。大塚・宮崎体制がベースにあり、その流れにない優秀な職人クリエイターたちが大成功を収め多大な貢献をしたのにも関わらず、なぜか二度と呼ばれることもないまま、不遇をかこつている。


「7番目の橋が落ちるとき」に出て来るカリオストロ城にそっくりな屋敷の建物とアングル


温故知新というように、古い物語や古い話には、創作のヒントがたくさん散りばめられている。

たとえば、「殺し屋はブルースを歌う」回が、ルパンと不二子の本当の怖さを表したものと考えたなら、その後に作られる作品の質も内容も変わって来るだろう。

それが古典の醍醐味であり、誕生から半世紀も経った作品はもう立派な古典である。


詰まる所、読み手の、受け取り側の読解力や解釈の力が試されていて、古典となった時代劇、ルパン三世の新たな時代は、我々がどう読み込んでいくか、そこから何を得て行くかが問われていて、古い物をただ古いと見なすのではなく、また、こちらのご都合主義を押し付けるのではなく、そこに現代に通じる問題を照らし出し、新たな課題や問いかけを探り出して行くことが、我々の役目ではないかと思うのである。


近年のルパン三世の退屈さは、作り手側の怠慢がないだろうか。古典となった過去作を調べ直すこともせず、従来の「何となく」のイメージで、同じイメージの作品を量産する。そのことに多くのファンが飽き飽きして、大勢のファンに見限られて来た。

しっかり過去作品と向き合ったPART5に見応えがあったように、小池ルパンが刺激的なリバイバル作品になっているように、ちゃんと過去作品を観直せば、そこには創作のヒントがいくらでも込められている。


なぜなら、ルパン三世というコンテンツは、犯罪のような社会問題、国をまたぐワールドワイドな国際性とスケール感、男女関係のようなジェンダー、ノマド的な仲間のチームワークや人間関係、銭形とのライバル関係のような父子の因縁、公権力と反権力、トリックやマジックのような娯楽性、攻略アクションでの最新テクノロジーなどなど、およそ「現代」に関わるものを包括する、とても懐の深い作品だから。


それをたとえば、もっと個人的なもの、心理的なレベルに落とし込めば、「峰不二子という女」のような内面世界の表現にも昇華出来る。

そういう柔軟性や、ルーツを西洋文学に求めた歴史性もあり、いくらでもカスタマイズが可能なのだから、後は実力のあるクリエイターがどう料理するか次第。


いつまでも「ルパンが悪人かどうか」にこだわっているのは愚の骨頂で、それはクリエイター側の問題意識の低さだと思う。

作者生前から「どのように調理してもよい」とお墨付きをもらい、まるでフリー素材のように自由な創作の権限を与えられているのだから、料理することに疑問を呈してどうするのだろうか。


ルパン三世は、「善と悪」のような規範さえも軽々と飛び越えるからこそ、先程述べた幅広いジャンルに跨って物語を創作することが可能で、それはほぼ「世界」を手にしたようなものである。


限界を超え、時代を超え、境界を超え、物語を創作出来る自由と柔軟性。

これほどの自由があっても世界観が崩れないのは、作者による骨太な骨組みがあるからで、こんなに器の大きいコンテンツは、洋の東西を見ても他に類がない。

だからこそ、これほどクリエイターの実力があからさまになる恐ろしいフォーマットもない。


宮崎監督が提案したゲストヒロインの形は、宮崎監督流にルパン三世を料理したに過ぎない。クリエイターによって、どんな調理も可能だし、自由なのである。

いつまでも同じ形を踏襲し、せっかくの広大な作品世界を縮小させ、見す見すその豊かな土壌を枯れさせることもないのになと思う。



忘れてはならないのは、散々ファン離れを起こしたこれまでのありきたりなテレビスペシャルも、実績があり名だたる脚本家陣が起用されていたことだ。

実力があり認められた脚本家たちが、ルパン三世というレジェンドに挑んでみたものの、あえなく討ち死にすることが珍しくない。



ルパン三世の作品世界は広大で深遠だ。それは大袈裟に言えば、シェイクスピアの古典のように探れば探るほど宝物が出て来る鉱山であり、その労力を怠ればどんな名作家でも何も見つけることは出来ない。


30分程度の物語でも明白なのに、映画並みの長時間の特番や、何十時間にも及ぶ長期のテレビシリーズなど、作家の想像力だけで太刀打ちできるはずがない。

過去の作品を下調べせずに、長い年月の間積み上げられた地層を掘り進むことなく、現代の「ルパン三世」というお宝を見つけ出すことが出来るとは思えない。


あの宮崎監督でさえ、1stのテレビシリーズにスタッフとして参加し、試行錯誤のような下積みを繰り返した上で、ようやく「カリオストロの城」の名作が生まれたのだ。


また、せっかく良質な物語を生んだ脚本家をその後起用しない体制もよくわからない。

米村正二さんの「ワルサーP38」「ファーストコンタクト」は、人気投票でも上位の常連で物語も面白い。

「複製人間」という大傑作を生んだ吉川惣司さんの作品ももう一作くらいあってもよいと思うのだが。


その場しのぎのノリや盛り上がりよりも、一作一作、良質な物語を紡げる作家を重宝すべきだと思うのだけど。


アニメだからといって、ルパン三世を舐めてないか?

「ルパン三世」ほど、作家の知識、教養、洞察力など、力量が露わになるコンテンツもないのに。

また作画においても、70年代のスタイリッシュなセンスやデザインを超えられた作品が一体どれだけあっただろうか。


長い歴史を持つということは、常に過去の作品がライバルになる。

昔からのファンも高齢化し、見る目も肥えている。若いファンもアニメが氾濫している時代で取捨選択が厳しい。

他のどの作品よりも高度な水準が求められているはず。



1stの名ヒロイン・リンダ。走り方の美しさが印象に残る。PART5のラストの不二子の「女の子走り」には幻滅した。スタッフはまさかこの回を知らないはずないだろうに、なぜ不二子に幼女のような走り方をさせたのだろうか。

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