ルパン三世 PART5 ルパンと彼らの関係Ⅱ
リップサービスの愛の言葉と違って、本気のルパンの愛情表現がいつも命がけなのは、それがセックスのメタファーでもあるから。女のために命を惜しまないのは、女の中で果てる性行為と等しく、それがルパンの快楽でもありプライドでもある。
ルパンと不二子、二人の破局と4年間の別離の重み。ルパンがそれをリセットするには全てを捧げる必要があったということか。
PART5には「殺し屋はブルースを歌う」に負けないほど、濃厚なラブストーリーが根底にあると思うのだけど。
元剣道部出身としては逆手が気になります
忘れてはいけないのが、ルパンは五ェ門との勝負でも命を賭けたこと。あの勝負のルパンがどこまで本気だったか答えは出ていない。ルパンに必要だったのは「(不二子に対してだけでなく)五ェ門にも命を賭けている」ことの証明であり、勝負に勝つことではないから。
そして五ェ門が本当に欲していたのもまさにそれだったから。ルパンが不二子に対して命を預けたように、自分にも命がけであって欲しいという狂おしいまでの愛情欲求。
勝負とは名ばかりで、あの勝負が不二子の前で行われたのは、まるでねるとん(古い・笑)の如く「待った!」と言わんばかりにルパンと不二子の間に割に入って来たのは、ルパンが不二子に愛情を向けるように命を捧げるように、自分にも愛情を命を捧げて欲しいという五ェ門の強い願いでしかなく。五ェ門なりの愛の告白…
それを察したルパンに出来ることは、五ェ門との勝負に勝つことではなく。五ェ門に自らの体を捧げ、斬り刻まれることしかなかったのではないか。
そして女に対してだけでなく仲間にもそれをやってしまうルパンの執念は、ルパンと仲間たちの関係が限りなくホモソーシャルなことの証でもある。
不二子が冷めた目でルパンと五ェ門の勝負を見つめ、ルパンが瀕死の状態でも顔色一つ変えなかったのは、変えられなかったのは、ルパンが自分に向けていた愛情が自分だけのものではないと、目の前で見せつけられたせいもあるかもしれない。
せっかくそれまで男が示した愛情表現も水に流され男までも殺されそうになるのだから、女はどんだけガッカリしてアホらしくなったか。
あちらが立てばこちらが立たず(笑)この時ルパンの生死が不二子にとってどうでもよくなったのは、それが自分ではなく別の人間に捧げられたものだから。
二人の再会から、それまでルパンが不二子に対してだけ約束していた自分の命を目の前で反故にされたのだから、不二子は落胆し呆れるしかない。ましてや不二子は死にかけたルパンを救った恩人でもある。
だからルパンは再度不二子にアタックする時、あの賢い頭で悩みに悩んだのはよくわかる。不二子に捧げる愛の証として、一体命以上の何があるのかと。
そして出した答えに不二子が感動したのも、ルパンの愛をようやく信じることが出来たのも、それが不二子だけ、という何よりの証、不二子が心底欲していたものだったから。
「私を盗みなさいルパン」
再びルパンを待つ間、不二子が斬られたルパンが生きていることを信じて疑わなかったのは、ルパンは五ェ門には決して命を捧げない、たとえ斬り刻まれてもルパンが死ぬことはない。ルパンが命を捧げるのは自分だから。そう信じられる何かが二人の間にもうあったからかもしれない。
それは五ェ門が割って入るほんの一瞬前、不二子が自分を最後の宝としてルパンに捧げることを約束した時、初めて不二子からルパンへ自分を差し出した時、見つめあった二人の間で確かな絆が生まれた瞬間だったと思う。
「大人にはロマンチックが必要なの」
不二子の台詞は二人が過ごした過去の回想だけでなく、もう二人の間で新たなロマンチックが始まっている、不二子もルパンも二人の新しいロマンの中で生きている。そのことを示す言葉でもあって、ルパンは不二子の言葉があったからこそ、不二子の愛を背に、五ェ門との勝てる見込みのない勝負を、逃れられない痛みを、潔く受けて立つことが出来たのかもしれない。
愛の告白といえば、五ェ門が決闘という形で自分の命を賭けてルパンに訴えたのに対し、次元はたった一人でルパンを取り囲む大勢の敵を倒し、「不二子になんかやれるかよ」とルパンに対して訴えていた。
PART5では五ェ門のように次元の内面が語られることはほとんどなかったので、多分次回のシリーズではアルベールとの対比で次元がルパンとの関係においてメインになって来るような気がする。
今回が五ェ門不二子によって、ルパンと仲間たちの関係が見直されたのに対し、次シリーズでは次元不二子によって、ルパンの周囲が再度問い質されるかもしれない。
それが本シリーズのラスボスによって問題提起されたように、次シリーズではアルベールによって、仲間たちとの繋がりがまた揺るがされ見直される、そんな話が出て来るかもしれない。
大河内脚本はとても構造的なので、当たるとは限らないけれども、なんとなく予測が出来る。台詞やシーンの流れはとても流麗で感覚的なのに、脚本の構造は理論的。
まるでハリウッド超大作のように綿密な計算の上で構築されたバックボーンがありながら、登場人物はそこで踊るように台詞やシーンが無理なく流れて行く。誰にでもわかりやすくシンプルなのに、その奥行は立体的で驚くほど深い。
わかりやすさで素人や一般人を楽しませ、その奥行の深さでプロやマニアを唸らせる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?