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うしろ向き小説講座 後編(一応の完成まで)

読んでくださった方へ

 前編のあのクソ長い文章をお読みくださった方、ありがとうございました。
 この文章は、人様に公開するという形をとっていますが(今回初めてnoteの投稿機能を使ってみました)自分の思考の整理のために書いているという面が大きいように思います。
 そもそもこの文章を書こうと思った理由は、絵のメイキングがツイッター上で流行っており、なら小説は……と思い自分が3年前に気まぐれに作った小説メイキングの記事を読み直したところ「今となんか違う」と思ったことからでしたが、書いていくうちに己の現状が浮き彫りになり、気持ちがブラッシュアップされていい感じです。思ったことを文章化するのって、心に良いんでしょうね。

 前後編ともにそうですが、この文章は二次創作小説を趣味で書いている私が、最近二次創作小説を書く際に行なっていることや考えていることのまとめです。
 小説の書き方の神業手法、魅せる表現、人気者になるにはどういう話を書けばいいか、というようなテクニック的な内容はありません。そもそも二次創作小説を書いたことないのだけど何から始めればいいでしょうか、のような初心者に向けたノウハウもありません。私にできることだけしか書いてありませんが、長いものを書く人間がどういうことを考えているか、くらいはわかると思います。
 後編も、どうぞよろしくお願いします。

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5 文章を書く、という行為は「話を流す」作業


 同じような二次創作文字書きから時々、「地の文が苦手なんだけどどうしよう」という相談をされることがあります。地の文……最初に聞かれた時、私その言葉の意味がわからなくて調べてしまいました。
 二次創作は、推しや原作への強力な愛を原動力としてファンが狂って生み出される作品群ですが、原作が小説の場合はわかりかねますが、そもそもアニメやゲームや漫画だった場合、この「地の文」と相性が悪いのかもしれないな、と時々思います。推しのセリフを考えるのは苦痛ではない……というよりむしろ言わせたいセリフを情景とともに創り出したいから二次創作への衝動が沸き起こることが多いですが、セリフや簡潔な場面説明はいいとしても、それ以上の言葉は不要に感じる時もあるからです。
 視覚的要素の優位を差し引いたとしてもマンガやイラストと小説の閲覧数に雲泥の差があるのは、この地の文が原因なんじゃないかと思うこともあります。これが多いとまどろっこしくて、見てすぐ萌える要素がわからないですものね。
 セリフの中で情景や喋っている人物のことが明確にわかるのであれば、地の文は極力減らしても問題ないと思いますし、とりあえずセリフだけ書いてしまってから、意味不明な箇所に文章を差し込むいうスタイルで書かれている方もいるようですので、それでもいいと思います。地の文を必ずいっぱい入れないと「小説」に見えないから怒られる、ということは、二次創作小説に関しては、あまりに気にしなくていいように思います。

 商業誌向けの大衆に読まれる小説であれば一定の作法というものは必要だと思いますが、二次創作小説は、自分の愛を詰めた自分だけのユートピアです。多くの人に見てもらった際にちゃんと読める状態にしておきたい、と思うならば、自分が思う「ちゃんとした」状態を文章中に心がけるといいと思います。同人誌としてお金を払ってもらっているからちゃんとしろと言われても仕方がない、みたいなこともよく目にしますが、同人誌を買うことは強制ではありませんし、同人誌の代金はほぼ印刷代です。読み手の求めるレベルに到達していないならそもそも書くべきではない、みたいな思考は、書く際には一切排除してください。

 ここまで読んでくださった方なら頷かれると思いますが、私には、上手な文章が書けません。

 持って生まれた天才的な着眼点とか、煌びやかな表現を紡ぎ出せるセンスとか、努力の上に積み上がった緻密なテクニックとか、そういうものは持ち合わせていませんし、大学や専門学校系で文学を学んだこともなく、リアルな職業の方で文章関係の仕事に携わっているわけでもありません。若ければ伸び代もあるのでしょうが、冒頭にもあるように老化を気にしている年代ですので、少しずつ勉強はしているものの、劇的に成長はしていないように思います。
 それでも書きたいストーリーがあるのなら私が書くしかない……ので、手持ちの能力を最大限に駆使して、作り出していくしかないのです。己の能力を憂いてもお話はできない……書いた後に落ち込めばいいや、と思いながらとにかく手を動かします。
 とりあえず、読んでみて自分の文を自分でスムーズに理解できるのであれば、そのストーリーを語ることができているのではないか、と考えています。

 さて、あまり細かい部分を気にしていても、お話を進ませることはできません。時間がありませんから突っ走るしかない。しかし走る時に意識していることはあります。
 ある程度長いお話を走りきる際には、以下の注意をしています(あくまで私の場合です)

 (1)初稿は完璧を目指さない。75パーセントくらいの出来でいいからとにかく完走する。
 (2)セリフしか思いつかないシーンは、とにかくセリフを入れておく。
 (3)私は地の文に心理描写を入れ込むスタイルなので、視点の移り変わりには十分注意しておく
 (4)1章終わるごとに、残りの制作時間の計算と、ストーリーの主軸をチェックする。

 小説には、場面があって、そこにいる人物の行動があって、心理があって、セリフがあります。それらが積み重なって、大きなストーリーが形成されていく。
 小説を書く人間は、これらの要素を文章という形でつないでいく作業を延々と行なっていきます。
 私が最初「地の文」という言葉の意味を理解できなかったのは、私が「行動描写」「情景描写」「心理描写」「セリフ」という小説を構成する大きな要素を一括りで考えており、セリフだけを切り離していないせいです。文章は連続していて、行動も連続している……心理もそこに表現されて……うまく説明しにくいのですが、お話は「流れて」いきます。セリフだけ独立しているわけではありません。
 後世に残したいコピーライティングをしているわけではありません。文章はとにかく「話が流れる」ための手段と割り切って、ガツガツ書き進めます。余白時間に思いついたら一文、とかでも続けます。後でおかしいなと思ったら消せば良いのです。映像を浮かべ、そのシーンに入り込んだつもりで、とにかく書き殴りましょう。

 75パーセント、としたのは、最初から完全形を目指したらいつまでも終わらないからです。仕事をやる際にまず締め切りに間に合うように終わらせてから、後でじっくり細部を直すべきだ、みたいなビジネスノウハウがありますね。あれです。まずは決めた期限内に終わらせる、を目標に動きましょう。
(私は完成させてそれで終わりにしてしまい、よく上司にミスを指摘されて怒られますね。仕事は振り返りたくないので、はじめからもっと高い水準を目指したほうがいいのでしょう)

 そして1章分終わってホッとしたところで、軌道修正をすべきかどうかの確認作業をします。最後まで走った後途中からおかしくなっていたら「消せば良い」と考えるのは流石にしんどいので。具体的にはプロットを見返し、そこで表現したかったものがちゃんとあるか確認し、その後の展開にブレがないかを見た上で、1章分にかかった期間を計算して今後の執筆計画に遅れがないかを確認していく、という大変地味な作業です。スゴイ小説家はそうではないと思いますが、底辺文字書きの行う執筆活動は職人の行動に近いものがあると思っています。私はアーティストにはなれないけれど、仕事に誇りを持った職人の一人にくらいはなれたら良いな、という気分ですね。


6    自分の話の一番の読者は自分、という観点での推敲

 

  さて、時間をかけて己の気持ちを詰め込んだ小説の初稿が完成しました。これまで長いこと作業をしていたのでもう文字など見たくもない……という気持ちになりがちですが、一旦寝かした後に、或る意味修羅場の推敲作業が待っています。

 お話を書いている時はとにかく流して、完璧を目指さず作っているので、推敲の時にかなりの書き足しが発生します。情景描写などごっそりと追加になる場合もあります。
 二次創作は、人物のセリフと見せ場のシーンに熱が入りまくりなので、その勢いに蹴落とされて色々抜け落ちているのです。行動描写が抜けていると何をしているかわからなかったりします。伏線を入れたはずなのに入っていなかった、なんてこともないとは限りません。
 ここでは自分はそのジャンルの小説にハマった読者になったつもりで、シビアに見てどんどん足したり、逆に不要なところはカットしていきましょう。
 小説を書くのによく観察眼が必要、と言われたりしますが、観察眼は周囲へ向けるものだけではなく、内面へ向けるものでもありますね。二次創作の推敲時にもこの考えは役に立つと思います。つまり……私自身の好みや思考回路を十分に把握している私であれば、どんなところで言葉が不足しがちか、どこが冗長なのか、どのシーンで盛り上がりが欠けそうか、判断が簡単なので、推敲作業が捗るのです。

 信頼できる友人、師匠、プロに推敲を頼むこともできます。他人の目線というものは重要なので、そこで得た結果によって、ぐんとよくなります。しかし他人には誤字脱字、文章の構成、言葉の誤用、セリフの不自然さや展開上の表現不足、そもそものストーリーの意義への疑問、などは指摘できても、「わたしがかくさいきょうのおしのストーリー」にその制作物が合致するかどうか、の答えは、私にしかわかりません。技術的な面は周囲のサポートを仰げるけれど、自分の作品の良し悪しを決めるのは結局自分なんですよね。どんなにいっぱい直しても、そこがダメなら軌道修正するか、お蔵入りになります。
 だから、最終的には自分の目を信じて、お話を完成させてください。

 逆に技術がダメダメでも、自分にとって超絶いい感じであれば、それで良いと思います。
 私がまさにそうです。長いことじゃんじゃん書き続けていたら、技術はある程度の水準以上であれば(少なくとも読める字で読むことができれば)いいじゃん、と開き直りました。老化は恐ろしいですが、こういう開き直る経験を積み重ねてきたことは利点ですね。
……いやもうちょっと向上心を持っていい文章書いてよ、と読者の方の私がツッコんできますが。


7     完成後の扱い 〜認知されない話は存在しないと同じか


 物語を終え、推敲も読者の私を納得させる形で終わり、お話が完成しました。
 私は、書く前の私よりも、その作品のことが好きになったと思います。
 <完>

 物語が完成したら、一段落です。次に書きたいお話があれば、その妄想を膨らませるところから再度スタートします。この講座の<2>に戻って繰り返しです。お疲れ様でした。新しい旅路に乾杯!

……とならないのが、現在の創作の世界ですね。
 作品は、どの媒体で出すか決めます。ツイッター、ピクシブ、サイト……同人誌にするのであれば、この後レイアウト作業と、長い長い長い校正作業、奥付や目次や扉の作成、カバーと表紙、宣伝文の作成という小説を書く以外の作業がてんこ盛りです。てんこ盛り過ぎて、この作業をしていると今度は小説の書き方を忘れてしまうこともあります。

 私は、とにかく自分の二次創作小説を書きたい、という熱の高ぶりが冷めなかったので、45万文字の作品を2つ(だから全部で90万文字)作った後、別のジャンルでずっとあたためていた長編の執筆に取り掛かりました。3つ目の長編(これは70万文字)が終わった時、最初の話を書いてから1年半経過しており、全ての作品を誰にも見せたことがない、という状態でした。
 私は当時ピクシブもツイッターも活用しておらず、サイトを作るのが面倒なので公開は無理だし、まあいいか、という感じで放置してたんですね。そんなにあるのなら出しなよ、と友人に勧められてピクシブを活用することにしたのが公開のきっかけです。その1年半後、今度は本を作りたいという気持ちが沸き起こり、同人誌も作ることになりました。
 今でこそ書いたら「どの媒体で出そうかな」と考える私ですが、かつてがそういう状態なので、作品を公開することには拘らないくてもいいんじゃないか、と思ってしまいます。

 最初の方で書いた通り、私の二次創作小説は、私のその作品の愛ゆえに作られています。
 作品を書く意義についての項をしつこい感じで書いたのは、それを他者に求めず自分の答えを持っていた方がちゃんと完成させられるからです。
 ちゃんと完成した、私のために作られた小説がここにある……それで目的は達成しています。ここから先はオマケです。完成した作品をいう盾を持って、交流の海に飛び込むのもあり、同人誌という形にして取っておくのもよし。自分の推しへの主張を伝えたいから、さりげなく公開するのもよしです。
 もう一度書くけれど、完成した作品があるのなら、その先はオマケです。他人の反応に一喜一憂を……私もまあ当然するんですが……反応が悪いことは己の作品の否定などでは当然なく、他人からの批判はあくまで他人のものです。

 もし他人の反応に「一理ある」と思って納得したならば、その事実を吸収し、次に作るときに意識をすればいいのです。ただその際にも「他人にもっと○○してもらいたいから今度はこうする」ではなく、「前回はあの時のあの見せ場があの理由であまりぱっとしなかった。だから次はこうすればもっと楽しくなって、私にとって好きな感じになるかも」というように、あくまで主観で考えた方が気が楽だな、と思います。
 これを書くと批判されそうだけど敢えて書いておこうと思います。上記とは逆に他人から「いい反応」を得られた時には己の心に警戒心を持っておいた方がいいです。つまり……「前回めっちゃ反応良かったから、次もああいいうの続けよう。もちろん私も好きだし、もっと見たいし!」と考えるのは良いと思いますが、悪かった時よりも気を引き締めるべきです。他者は次にそれを求めているとは限らない。自分も本当にそれを書きたいかどうかわからない……ちゃんと自分に向き合って、是と思ったならば前に進みましょう。なんだかここ禅問答みたいですね。
 もちろん良いメッセージを頂いた場合、その方に感謝し、心の栄養にさせていただきましょう。

 そして公開後は、宣伝、告知を行います。私は、じゃんじゃん告知を繰り返すことを恥とは思いません。私は長いことそっち関係の業界に携わっているので、昨今の、広告=悪のイメージを心苦しく思っています。人に必要な情報を報せることが、広告の意義です。そのジャンルの創作物を読みたい人に、自分の作品の情報が目に留まり、読んで頂いて共感や体験をしてもらえるのはとても有意義なことだと思います。ツイッターというツールも、ピクシブの仕組みもうまくできていて、昔みたいにサイトを探しまくる必要がないのですごく有難いなあと感心しています。

(補足

ここで言う「宣伝」は同人活動、版権ものの二次創作の「範囲内」での告知です。公式を楽しんでいる人達あてに強引に活動すること、公式の利益の侵害に値するもの、公式に接触することは想定しません。私は検索除けをサイトに入れていた世代のオタクなので、「それを求めている人々に」という範囲を強調したいと思います。)


 ただ、同人界隈は広いので色々な考え方があると思いますが、ちょっと驚いた見解もあります。
 それが「読まれていない作品は、存在していないのと同じ」という感じの見解です。

 それも一つの意見です。そのジャンルの小説を読む人が例えば100人くらいいたとして、20人が読んで80人が読んでいないのなら、80人にとってはその作品は「存在していない」という……まあそういう気持ちになってしまうのもわかります。かなり乱暴な理論だと思いますが、「だから告知が大事」という結論を持ってくるのであれば、これはとても鋭い指摘です。営業のプレゼンで出てきそうな煽り文です。
 でも、やっぱり乱暴でしょう? 存在している作品を指してのその文言は、作った自分を傷つけます。

 作品はすでに手元にあります。私の力を注ぎ込んだ、私の小説です。この時点で、誰かに知られていなくても、ちゃんと世に生み出されていますよ。消したりしない限り、ずっと残っています。
 だから、誰も読んでいないんだから消しても同じ、なんて理論で消さないでください。作品を、せめて自分の手元には残してあげてください。
 心が弱っている人ほど冷静な判断ができないと思います。しかし自分が納得いく話であれば、少なくとも自分だけはその作品が消えることを悲しく思っていて欲しい。これは小説には限らないと思います。

 私に「同人誌にした方がいい」と強く言ってくれる同人の先輩方は、おそらくこのことを理解していたのでしょうね。目の前の本はなかなか焼いたりしないですもの。
 作品が完成した後の行動は、すべて創作にとってはオマケです。しかし同人誌をつくる場合は新たな「創作」が発生するので、さらに愛着が湧くかもしれません。自分の作品をもっと好きになるならば、もっと本を作った方がいいかも、と最近は思うようになりました。
 公開しなくていいや、と思ったあの時代とはえらい変化ですね。しかしSNSだけに留まり続け、本を作ることがなければ、この陽気な思考回路でいられたかどうかわかりません。それくらい面倒な要素が外部には蔓延っている気がします。

最後に
 
 

 昔ほど書けなくなった私が小説を書く、という観点でつらつらと長ったらしく書き連ねてきました。
 最後の方は創作に関係ない話になってしまいましたが、これだけSNSが発達している今、全くのロンリー、クローズド状態で活動するのはなかなか難しいように感じているので、つい書いてしまいました。

 小説を書く、という行為には面倒な作業がいっぱいあります。孤独ですし、自分の声に向き合うのは年齢を重ねた私にも時々きついし、何よりも単純に作業時間がかかりすぎる、おまけに読者数は少ないので反応はあまり期待できません。交流や反応を求めて同人活動をするのならば、避けておきたい媒体かもしれません。
 しかし小説を書くことは、本当に、楽しいです。書けなくなったと思って落ち込んだけど、書ける方法を見つけてから、また楽しくなってきました。速度は落ちたけど、今の自分が書くものも好きになってきました。
 せっかくやるんだから、楽しく、その後のことも楽しくやっていきたいですね。


 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 書いていて楽しかったですが、長くてすみませんでした!

<了>


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