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GARGOYLE(1)

 曇り空。生臭い息のような風。
 その臭いは、ダニーの隙っ歯を思い出させる……あいつは、とにかく言動以外の、すべてが下品だった。鳶色の髪はちぢれあがってぼさぼさで、動くたびに雪の中を走り回ってきた犬みたいに真っ白いフケがこぼれ落ちてくるし、ぴょこぴょこと落ち着きのない残像からは踵で何度も踏みつけて真っ黒になったキャラメルみたいな臭いがする。唇が歪んでいて(生まれつきではなく、小さいころに熱病のせいでこうなったんだと言ってた)、ものを食うときはかならずクチャクチャと音を立てるので、食事をしているあいだ手で顔を覆っているのだが、節ばって垢でまだらになった指の隙間から、ぎょろぎょろと白目の多い目が覗いているので、仮面をつけた出来の悪い仮装のお化けのようだといつも思っていた。顔はギュッと抑え込んだように小さく、後頭部が妙に後ろに間延びしていた。そしていつも同じ服を着ている……これはストリートの連中はみんなそうだから気にすることはない。だが、ひとつ言うなら、ダニーは他の路上暮らしどもと違って、ガス屋の裏手にトタン屋根の張った家を持っていたし、そこはテナントビルの排熱でいつも暖かかった。だからあいつは、そういうところを傘に着ていて、まるでちゃんと洗礼を受けた両親から生まれて屋根の下で育ったみたいに振る舞うので、嫌われていた。ダニーは口数が多かった。気が付くと壁に向かってでもずっと喋っている。ずっと壁に向かってくれていればいいのだが、人が話を聞いてくれそうなそぶりを見せると、路地裏に無数にいる鼠どものように、なりふり構わずといった様子でちょこまかと近寄ってきて、額と額がひっつくぐらい顔を近づけてくる。そのまま喋るんだからたまったものじゃない、歯の隙間から鼻声が溢れ出してきて、ゴミ溜めから吹いてくる風みたいな生臭い匂いでいっぱいになる。こっちが顔をしかめていてもダニーは気にしない。あいつは人の顔なんか見ちゃいないんだと思う。喋れりゃそれでいいんだ。内容だってなんでもいい。自分の脳みそに藁じゃなくシワシワのかしこいオツムが入ってることを主張できればそれでいいんだ。だからおれはあいつについて実にあらゆることを知っている、なんでもかんでも喋るから。親父が溶鉱炉に落ちて死んだ夜が何年何月何日でしし座流星群の日だったこと、いつもテナントのバーの夜客の老婆から(これは本人は言ってないが、俺は思ってる――”シッポを振るのがうまい野良犬のように”)飯を貰っていること、ネズミを生で食べてはいけない六つの理由、ルーシーって名前の(ちょっと頭のおかしい)妹がいること、前のしし座流星群が何月何年何日であと何ヶ月で再来するのか、火力発電所で働いている人間が死んだことを電力会社が隠蔽しようとするのはなぜか、それから……

「あのキモい木の瘤みたいな石像はぜんぶ牛の悪魔の形をした雨どいで、建築家はあの先っちょのところに刺さって死んでたんだ。上の天窓のステンドグラスをどうしても交換したかったんだって。鳶に任せておけばよかったのに、その前に最初のガラスを壊したのが鳶だったから誰も信じられなくなってた。それで雨の中、吹き抜けの上の天窓を交換しにいって、足を滑らせて死んだ」
 ダニーは唾を飲み込むと、吐き出すようにげらげら笑った。俺は笑わなかった。

 広場に聳え立つ教会は、この町で唯一に名前を持つことを許された建物だった。サント・ワース・チャペル

 この教会の表面はこれみよがしに彫刻された石の塊で出来ていて、ダウンタウンの数千年前から永遠に変わらないように思える黄色っぽい土くれの家々を見下している。昔、この教会の前には噴水があったらしいが、爆弾で吹き飛んで無くなったらしい(これもダニーの言葉)。
 小うるさい先公のように厳粛な観音開きの扉と、視界に入れただけで目がゆがんでくるような細かい文様の彫刻柱、それら鼻持ちならないサント・ワースの外骨格の中で最も異質なのが、屋根のあちこちにびっしりと生えそろい、端の柱をつたって頭上にまで目を光らせる、無数の彫像だった。

 ガーゴイルたちはびっしりと、屋根という屋根、角という角のすべてを埋め尽くすように並んでいる。それは遠目にはいびつな爬虫類の鱗みたいに見えるが、近づくとひとつひとつに全て顔がついているのがわかる。わかればたいていぞっとする。ぞろりと並んだ何にも例え難い形状の小悪魔どもの、全ての顔に落ちくぼんだ目がついていて、ぎょろりと目玉に見えるにように石が埋まっている。びっしり並んだその全てにだ。そして、どれもが別のほうを見ている。悪魔の順序に整然なんてものはない。全てが排水溝のふちに溜まったおが屑のようにあっちこっちを向いていて、おそろしいことに、あのガーゴイルどもを視界に入れたら最後、その数十体の中の、どれか一つはかならずこっちを見ている。誰も逃れられない。その視線だけがこの町で唯一全ての人間に平等に降り注いでいるようにさえ思える。俺にも、ジュースの飲みすぎで石畳に這いつくばってるガキにも、配管工にも、立ちんぼの姉ちゃんにも、恐怖的にイカした”レッド・テイル”グループのオルグ兄弟(ブラザー)にも、そいつらにぶちのめされて夜になったら死ぬだろう野良犬にも。

「あの目がキモいんだ。こっちを見てるみたいだろ」

 俺はダニーに言った。

 ダニーと俺は一緒に下水屋のテナントビルの上にいた。ここからは噴水のない広場の給水塔にさえぎられていない部分がすべて見えるし、教会の尖塔も見える。フンまみれの鳥の群れみたいに屋根に詰まったガーゴイルどもは、ここからだと豆粒ぐらいにしか見えない。だが、あのうちのどれか一匹は……絶対に俺を見てる。

「よく気づいたな」

 ダニーはなんでもなさそうに答えた。

「イタチだらけの天井にネズミは住まないだろ。悪魔だらけの天井に悪霊は降りてこないんだよ。だから教会の屋根にはあれほど怖くないものはなにひとつ寄り付かない。全ての悪いものは上から降ってくるだろ、雨もげんこつも。だからあいつらは絶対に上にいるんだ。視線ができるだけ自分以外のものを苦しめるように。」

 俺の恐怖に回答をくれたのはあいつだけだった。
 ダニーの隙っ歯を通り抜ける風がひゅうひゅう鳴っているのを聞き、生臭い息が顔にかかるぐらいあいつが鼻先を近づけて(ダニーは壁と喋るときさえ鼻先がこすれるぐらい近づいて喋っていて、この厭な癖だけは最後まで本当にきちがいだと思っていた)喋るのを聞きながら、おれの頭の中にあったのは一文だった。

『知の光は全てを見通す。顔にかかった影をはらい……』

 それはつるつるした雑誌の切れ端に書いてあった。拾ったのは夏のことで、まだ樽じじいもかろうじて生きていたので、彼に読んでもらうことができた。俺がそれを持っていったのは裸の女の絵が描いてあったからだった。切れ端を見た樽じじいは、皺のひとつひとつにまで染み渡った赤ら顔で、そこに印刷された文字を読み上げた……「”知の光は全てを見通す。顔にかかった影をはらい、”……」じじいはそこで眠ってしまったので、続きは知らない(まあ確かに、凍死するのは時間の問題だったと言える)。

 ダニーと喋るたび、あの言葉思い出す。
 あいつは下品で、小便臭くて、歯抜けの鼠野郎だ。だが、顔の影は払いのけられているように見えた……あの汚れた街灯の下でさえ。


 (2)へ続く

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