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【世界滅亡アンソロ試読】映森

これは「#世界滅亡アンソロジー」に掲載した、笠鷺リョーノの文章作品の冒頭部分の抜粋です。



 俺は芋虫では、ない。

 蛇だ。


 ***

 全世界。
 館内灯の橙が降り注ぐ。銀幕の闇に支配された座席を洗い流していく。
 暗闇が潮騒めいて遠のき、映画は終わる。
 つまらない映画だった――開幕、制作会社のロゴ・マークが溶けて消えたあと、女の歌声が聞こえてくる。岩肌に打ち寄せるような、切り立つ崖の上に立つような、どこか鬼気迫る、虚空を見るような目で歌う女。カウンターの火酒。彼女はレコード歌手で、結婚し、すぐ離婚したばかりだった。ゴシップが土石流のように世論を倒壊させていく中、彼女は歌う、ほかに語るべきことはないと言うように。しかし置き去りの火酒には憂いがのり移っている。記者が尋ねる。本当に言うべきことを誰にも言っていないんじゃありませんか。彼女はグラスに残ったものを全て飲み干して、それから言う。喉を切ったの。(ポリープの摘出手術をしていたのはほんとうだ。しかし世の中は泥だらけの水に押し流されてそんな些細なことは忘れ去っていて、)だから、今の私の声は。違う。違うものになってしまった……記憶の中の歌。芸者だった母親について回った舞台。半ば盲いて、ほとんど自分を見ることなく、顧みることなく、活かすためだけに生きている背中。どさ回りの苦行から掬い上げるために、歌うほかにすることはなかった。いま、私は、あのときのようには歌えない。違う、と記者は知る。彼女にはいま、語るべきことがないのではない、手段がないのだ。失ってしまったのは喉ではない、本当はそうではない、それでも歌うほかにはない。それ以外には――
 女と、母と娘の物語だ。詰んで叶えた夢の先に、なにもなく、ふと、振り向いたときに見えた、母親に会いに行く。
 つまらない映画だった。
 外へ出ると、透き通って路に立つすべてのものを吹き消してしまいそうなぐらい晴れていた。
 喧噪を縫って歩いても、一人。
 すべきことはひとつもなかった。これ以外には。
 いま、俺の手のなかにはナイフがあった。誰も気づいていない。うようよと歩き回る人間の誰ひとりとして、この中に、人間のただ一人も殺さないままいられはしない、誰か一人でも喉をかっ捌いて、本当に断末魔がマンガのようにひゅうひゅう鳴るのか確かめてやらなければ済まない人間がいることなんて。食パンのうちに一斤が黴ていることなんて。鳩の中に新種の流行感冒を患ったのがいるなんて。
 自分がこれから死ぬかもしれないなんてことは想像だにしないんだ。
 世界が終わることは信じているのに。

 1999年、恐怖の大王は現れなかった。無能なノストラダムスの野郎は見事にしくじったのだ。もちろん2012年にも滅びなかった。古代文明の暦の切れ目ぐらいではもはや太刀打ちできないほど世界というやつは強固になった。おそらく2032年にも滅びないだろう。UNIXが狂ったところで、とっくにおかしくなった人間どもが今さらみんな狂い死んだりしてくれやしないだろう。
 しかし、十一月の暮れぐらいから、急に風向きが変わった。ふと、世界はもう今年いっぱいで滅んで終わってしまうんだろうという気がしてきたのだ。それが俺だけならいつもの発作みたいなもので過ぎたのかもしれないが、どうやら世間一般というのがみんなそう思っているだろうと感じたのは、ニュースに大規模地殻変動の疑いとかいうのが出た瞬間、火のついたようにおふくろが「ほら! ほらあ!」と騒ぎ始めたのを聞いたときだ。この人は女をあがった直後ぐらいからずっと精神不安定が続いていて(思えばずっと俺の小さい頃からそうだったようでもあるが)、急にヒステリーを起こすようになって、しかし狂ってしまうほどの良識もないから「風が冷たいじゃない!」ぐらいのことで壁を壊すぐらい暴れたりりする。不安はいつも根底にある。噴出するのを待っている。だから、亀裂が入る理由はなんでもいい。ひどい気候変動のせいで衣替えのできないまま吹き始めた空っ風の冷たさでもいいし、貯金を食いつぶして生きているのか死んでいるのかわからない息子への憤りでもいいし、地殻変動で沈むかもしれない日本列島でもいい。なにかが指を差してさえくれれば、向きたい方向を向いて、叫びたいことを叫べる。
 SNSはずっと世界が終わる話でもちきりだった。突然、1999年が踵を返して戻ってきたみたいに。
 何百回もタイムラインに回ってきた「古代アステカ文明の予言」とかいうのがテレビのニュースで取り上げられ始めた頃に思った。もしかすると、この重苦しい不安が、いま、全ての普遍の人間の胸中を吹き抜けているんじゃないだろうか。予感と呼ぶにも微かすぎる、不安を削ったあとにのこった木クズみたいなものが。例の予言はフェイクだと警句するツイートが回り始めて、そろそろ大喜利も見飽きた。これは単純にムーヴメントなんだ。2019年、令和を元年で終わらせるに足るミームの爆弾。集合的無意識に投げた石でついた小さな罅。
 無性に悔しくなった。
 それはお前らが触って遊んでいいものじゃないんだ。わからんだろうな。それはお前らが遊んでいいものじゃない。虚無の暗黒は俺たちのためにある。たとえ映画が俺の話をしてくれなくても、語られるべきものだけが語られ、偉大なものだけが拍手喝采を浴びるのだとしても、照明が落ちたあとの暗黒、銀幕と座席の間にある深い漆黒の谷間、そこにある暗闇は俺や、俺のようなもののためにある。世界は目に見えるものに脊髄反射で返事をするだけで生きていけるような連中ではなく、俺や、俺のようなもののために滅んでしまうべきだ。
 それから先、俺は爆弾のようになった。いつでも火をつけられることを誰も知らない。誰かがもしも気づいたらやめようと思っていた。だが誰も気が付かなかった。俺の存在は足元を這うぐらいのもので、見下ろされることすらない。だが人間、ぬかるみに足を取られて死ぬこともある。足元を見ないやつはそうやって死んでいくんだ。それを思い出させてやる。
 フラッと入ったビルの空調で体中の毛が鱗のように緊張し、ぞわりと逆立った。俺はもうナイフを抜いていたけれど、ブティックの前、若い女の集団の真横を通り過ぎ、エスカレーターで地下一階まで降りていくうちにそれに気が付くものは誰もいなかった。今からこの、今目の前のレジにいた女が死ぬのはそのせいだ。予告のない時限爆弾。

「やめろ」

 突如、手首をつかまれた。
 目の前には男が立っていた。どっしりした恰幅のいい胴をベストで覆っている。猪首(いのくび)で、顎髭は切りそろえられていた。

「やめろ!!!!」

 ナイフを構えた俺の手を兎かなにか絞殺すみたいに握りしめている男の腕はぶるぶる震えて血管が浮かんでいて、万力のように骨が軋んだ。指の骨が歪んで否応なしにナイフが滑り落ちる。男はそれを受け止める。ナイフは待ち構えていた男の左手に滑り込んだ。
 刃はそのままなめらかに弧を描き、買い物かごからビニール袋に冷凍食品を移し替えていた女の痩せた喉と頭の付け根、顎と首を結ぶ三角形の底辺、顎骨の隙をぬって皮をたやすく貫き、のどぶえに突き刺さった。んッ、と女は鼻から言った。刃渡り12cmの折り畳み式アーミーナイフが柄まで深々と貫き、舌の付け根を貫通して上あごに刺さっていたので口は開かず、ンッ、んッ、と身動きもほとんどせずに、胸倉をつかまれたみたいな姿勢になっていた。そいつはナイフを女の喉から抜いて、放るように床に女の身体を投げ捨てた。ナイフが離れた瞬間、女の喉から血が噴き出した。真っ青な血が。
 青い血は噴出して男の顔とベスト、俺のカッターシャツ、スーパーの床に真っ青な血しぶきの跡を塗りたくったあと、どくどくと溢れ出して床を生々しい青色に染め上げはじめた。やや粘質の青色が広がっていく。男のスニーカーがそれを踏んで進み出て、へんに痙攣したりしなかったりする女の胸倉をつかみ上げ、およそ胸骨の下あたりにナイフを突き刺し、体重を載せて下腹部まで一気に引き千切った。鼻腔までへばりつくようなむっとする血の臭い。腹の膜を破ってどろっと半分固まった青いペンキの塊のようなものがまろび出る。内臓は半分溶けているみたいで形を成していない。腸のように見えるものもお湯を入れたあと放置しすぎた麺のように重力でぶつぶつと千切れて地面でぬかるみの一部になってしまう。

「やめろよ」

 男の身体は既に真っ青だった。返り血、特にナイフを握った左手は、一度ペンキ缶に浸したような、ガビガビの青。
 俺は黙っているしかなかった。男は俺に向かって言った。

「もったいないだろ」

 せっかくの殺意が……





【続く】




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