SPELL #THINKTOBER

 呪文を教えてあげる。
 夢から覚めるための、ただ一つの呪文。
 耳を塞いで、目を閉じて、10数えてから唱えて。
 必ず戻ってこられるから。

 ***

 その呪文は、長い間、私の支えだった。
 金縛りで目が開けられないときでも、電車と同じ速度で走る巨大なキシリトールガムから逃げるために山手線の線路を走りつづけなければならないときでも、父親のふりをした殺人鬼が平然と帰宅していてお母さんもぜんぜん気づかないまま「いつもより機嫌がいいわね」なんて言っているときでも、耳を塞いで、目を閉じて、10数えてから呪文を唱えれば、すぐに目が覚めた。その後は、恐怖が動悸になって追いかけてきたりもせず、身体がここにあるという安心感に満ちていて、悪夢もなく静かに眠ることができる。
 ただ、誰に教えてもらったのか……全然覚えてない。

 ***

 ということを3回目に殴られたときに、車体のどこか堅いところに頭をぶつけて思い出した。
「やめなよ、それ死ぬやつじゃん」
 唇の端に泡を溜めるような笑い声。
 衝撃そのものだった。頭蓋骨を通り抜けて衝撃というもの自体が直接当たった。あたまを通り越して身体の真ん中までズドンと当たった。頭蓋骨がズレた感じでこめかみが痛い。ぶつけた後頭部はじーんと熱くなった。
 痛い。
 痛いのは全部。引き摺り込まれたときに捕まれた腕、引っ張られて変なふうに曲がった肩、ぶつけた足、膝、くるぶし、たぶん何人かで後ろに捻り上げられた腕、そのせいで捻った肩もずっとおかしかったけど、マスクの人がずっと振りかぶってなかなか振り下ろさなかったような気がしていた右腕、衝撃。顔を殴られた。頭の中に入っているものが後ろにすっ飛んでいった。何が起きたのかわからなかった。頬の堅いところに拳が当たった。首がごりっといった。わからなかった。
 車の中には大音量でロックンロールが流れていた。ものすごいギター。とかドラム。洋楽だった。わからない。楽しい感じ。アッパー。みんな笑っている。肩が痛い。
 殴られたのだと気付いたとき、泣いた。全部さっきの国道沿いに置いてきてしまった。急に引っこ抜かれて全部。私はまだあそこにいる。でもここで殴られてる。耳がキンとなっていてロックンロールしか聞こえない。振りかぶるのがすごいゆっくりだった。ゆっくりゆっくり。チョロQみたいなタイプのおもちゃを引っ張る感じ。
 殴られた。
 二回目は殴られたことしかわからなかった。ドッと沸いた。支えを失って倒れた。狭い車内でぐるっと人間が動いた。ぐっと喉がしまって持ち上げられた。襟首を掴まれていた。
 そして思い出した。あの呪文のこと。でも、腕も足も全部掴まれていて、どっかやっちゃって、唇の端には泡が浮いてるし、ピアス皮膚にめりこんでるし、ロックンロールが止まらない……

 ***

 青少年たちは西へ向かっていた。センパイが待っている。途中で拾うはずだったケイスケが来なかったので、彼らはパーキングでの停車を余儀なくされた。
 助手席のドアが空いて、トツカが下りてちょっとして、ぬいぐるみみたいになっていた少女は急に暴力へと変貌した。気を取られた一瞬で彼女は死にもの狂いでユウキをなぎ倒し、裸足のまま夜の駐車場に駆け出した。トツカが携帯を放り投げ、怒鳴り声を上げて少女を追ったが、彼女はひとつの躊躇もなくガードレールを飛び越えて林に踊り込んだ。さすがのトツカも躊躇して、代わりに突き落とすべく後ろから間抜けのユウキが引き摺り出されてくるのを待った。それだけの時間があれば充分だった。
 それは世界で一番長く、最も短い10秒だった。
 爆発。
 光が雑木林を焼き尽くした。トツカの目の前でユウキがそれに飲み込まれ、輪郭から順番に歪み、真夏のダッシュボードに放置した飴のように溶けて歪んでいくのをつぶさに見守った。それはトツカの世界で一番長く、最も短い瞬間だった。人間が世界で初めて相対する衝撃はどれも着弾するまでが最も長く、過ぎ去るときは一瞬だった。人間が蒸発する瞬間。
 立ち上がった光の柱は午前三時十三分の空を焼いた。トツカの皮膚を焼いた。車内、あるいは駆け寄ったコンクリートの上でそれを見た全ての人間の網膜を焼いた。直線上にあった気象衛生の羽根を焼いた。そこにあったものは全て、焼け焦げるか、溶けるか、燃えた。なにもかも全て。


 そして、彼女は目を覚ました。



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