青く塗れ


※この作品は、アンソロジー「物語とは須らく喪失である」に寄稿させていただいたものです。


 昔さ。
 人、殺そうか、って話になったんだよな。
 ダンプかなんかで突っ込んで、何人か撥ね殺して、うまくやれりゃあ横転させて爆発とかして焼け死んだりしてさ。果物ナイフなんか百均でも売ってるわけじゃん。頸動脈だっけ。とにかく首とか、腹とか刺しておけば死ぬんでしょ、人間。鉄砲なんか準備する必要なくってさあ、だって交差点なんか歩いてても、誰も突然今すれ違った人間に刺されるなんて思ってないわけじゃん。いきなりダンプがさ、車線ぶっちぎって突っ込んでくるなんて考えてないわけじゃん。
 めちゃくちゃ簡単じゃね? 殺人。
 って言ったらね、あいつ、じゃあ俺がさ、お前がダンプで突っ込んだ後に、すごい飛び出してきて、何をするんだァー! みたいなこと叫んでもいいしさ、とにかく怪我した人を助けようとするのね。死にかけてる奴ってどんなこと考えんのかな、もう虫の息のやつはいいとして、やっぱ死にたくないって思うのかな。助けに来た人間に何て言うかな、救急車呼んでください、とかかなあ。子供と歩いてるママとかだったらどうかな、あの子だけは助けて~なんて言うかな。言うわけねえか。やっぱ死にかけてさ、今まさに全身から血が抜けていきますよ、なんて時に他人のことなんか考えないよフツーは。もうなんか必死になっちゃって、自分他人とかそういう段階にないよね。うわーって感じ。
 そういう連中を助けるっぽく歩いてって、トドメ刺して回りたいわ。
 って言ったじゃん。お前ほんとさあ、そういうのホントどっから出てくるんだよ、って俺は言ったけど、あの時お前、本気だったんかな。
 俺は本気だったわ。
 なんか、もう何も関係ない、1mmも知らない、どこで育ってどこの学校出て、どういう仕事でどういう風に暮らしてて、昨日の晩飯に何喰ったのかとか全然分かんない、ただとおりすがっただけの、幸せか不幸せかも判別つかないそのへんの誰かを、なんとなくぶっ殺すつもりだった。
 でも結局、俺は人殺しをすることはなく、かといって他に何をするでもなく、強いて言うなら何一つも成し遂げる気力とか活力とか魂とかエネルギーとか情熱とか立場とか地位とか学歴とか金とかなんにもなくて、結局何もしなかった。
 お前はどうだっけ。知ってるわ、就職したけど気が付いたら辞めてたよな。
 でも辞めてない奴あるじゃん。あれ。何だっけ。
 いいよな……
 人殺しになり損なった俺は、通行人をひたすらぶっ殺す映画を撮ろうと思って、ビデオカメラを持って町に飛び出したけれど、当然エキストラのアテもなく、俳優のツテもないので仕方なく一人でペンキ買ってきて、でもそれが血糊になるような赤じゃなくて青いペンキで。ふざけんなよって感じで。赤ペンキの棚に青いの混ざってたんだよね、多分。
 あの後の電話覚えてるよ、俺が仕方ねえしエイリアンでも殺すかつったら、お前言ったじゃん。宇宙人殺しても意味ねえんだよ、人殺しになんねえじゃん、ってさ。
 今は分かるわ。
 殺すなら、人殺さなきゃ意味ねえんだよな。
 死刑になんねえから。



「どうしてあんなに頑張れるのかなって、ときどき思います」
 サオリさんは紅茶を飲んでいる。一杯五百円だぞ、コンビニで弁当が二枚買える。それを平然と、角砂糖とか溶かして飲む。すれ違うときにいい香りがした。柔軟剤の香り。まともな人間って何なんだろうな、なんか輪郭から違うんだな。
「ほら、ASKさん、多分知ってると思いますけど、本業があるでしょ」
 ASKは後藤の芸名だ。ハンネだっけ? どっちでもいい。同じだ。ダチぐるみで立ち上げたレーベルからインディーでCD三枚出してる後藤の本職は消防士。通報一発で跳ね起きなきゃいけない人間が未だマイク持つのも諦めていない。
 俺も、今俺の正面の席でお紅茶飲んでるサオリさんも、後藤のことは昔から知っている。消防学校時代、そのさらに前から。後藤はタフな男だった。だから勉強と筋トレと発声練習と音源づくりとライブが両立できた。両立? おかしいな。多すぎるな。
 まあ丈夫なんでしょうね。
「それだけじゃないと思うんです」
 サオリさんはマジメそうな顔をしている。本当に真面目な人なのかはわからん。たぶんこいつも後藤みたいなのが好きならまともではあるんだろ。後藤の曲がyoutubeでバズった時にコミュニティに居た女で、今はあいつの新しいアルバムのジャケットを描いている。そのちょっと前ぐらいにコミュに転がってた中学生は面子の半分ぐらいと寝てたらしいからわかんねえぞ。こいつももう後藤と二回ぐらいやってるかもしれん。後藤にはしおらしく言い寄ってきているのかもしれんし、あいつはその辺をぜんぜん話題にしねえのがもっとしゃらくさい。足りてるんでしょうね。
「何かきっと、おおもとの原因があるんじゃないかって。いつも言ってるじゃないですか、"出来なかったことをやり遂げるために残りの人生を生きる"って」
 それは後藤がアコギが鳴るトラックでいつも使う歌詞の一節の要約だった。何のことを歌っているのかはぼかされているが、聞けば一発で悔恨があり、そのために必死でやってるぜ見ててくれよ、みたいな意味なのは分かる。
「無駄じゃないと思うんです。何かをすることって。それが何であれ、たとえ歌であっても、本当に聞いてほしい人にもう届かなくても、歌い続けることにきっと意味はあるんだって」
 俺は何も注文していない。そんな予算はなかったので、水を飲んでいる。氷がデカくて飲みにくい。グラスを置くと鐘みたいな音が鳴る。
「何かのためにやる、やり続けるって、すごいことだと思います」
 サオリさんはテーブル上のICレコーダーを意識して、明瞭な発音で喋っている。俺はWEBライターとして、後藤の曲をバックアップする記事を書くためにサオリさんに取材に来ていたのだ。
 ありがとうございます。
「いいえ、何かお役に立てたら」
 人の好さそうな笑みだ。人間が突然死ぬことがあるなんて考えたこともなさそうな感じ。
 俺はレコーダーを止めて立ち上がる。
 ああ、あと一つだけ、頼みがあるんですけど。
「はい?」
 そう、俺は笑おうとした。顔面がしなびたミカンみたいに溶けていくのが分かった。これが笑顔なら世の中の干し柿はみんな笑ってるって言っていいんだろうな。まあいいけど、本題はここからだ。
 すみませんけど、お金貸してもらえませんか?



 半地下へ降りる階段を下り、防音扉を開けるとそこは異世界だった。
 熱量と同時にネオンカラーの光線が飛び交い、一瞬で影がポップスみたいな色に染まる。人壁がステージの輪郭を覆い隠す中、カウントダウンには一瞬遅れたっぽく、既にイントロが暴発していた。
 MCが舞台に飛び出した瞬間、フロアの熱量はオーディエンスの沸点を超えた。
「「「Foooooooooooooooooooooooooooooooooo!!!!!!!!!」」」
 ドタマがカチ割れるほど空間が揺れた。俺はバーカウンターまで辿り着けなかった。人波に押し返され、物販ブースの最後尾に巻き取られてそのままロビーまで一直線に巻き戻された。わけわかんねえ。RPGの一方通行床かよ。
 探すと、尾野さんは表で一服していた。
 待たせました?
 俺が出ていくと、尾野さんは「待った」と一言。そんで火を揉み消す。
 なんでここなんすか。中に居るって言ったじゃないすか。
「居れるわけねえだろ。見たろ、チケット前売りで完売してんだぞ」
 こんなデカい箱でやるとは思いませんでしたよ。
「俺もだよ」
 尾野さんはヤニ色の歯を剥いて笑った。
「で、何だっけ? アスクの話?」
 ぶんぶん頷く。尾野さんはレーベルの立ち上げ人で要するに代表取締役、あと金出してる人。ネットでチマチマやってる連中が堂々とストリートを歩けるようになったのはこの人のおかげだ――と、少なくとも本人は思っている。実際は誰もストリートを歩けてはいないし、知ってる奴はずっと前から知ってる。うまくいったんじゃなくてインターネットそのものの一般人口が増えたんだよ。でもこの人の金がなければステージどころか円盤も出せなかったような連中がユムシみてえにウヨウヨしてるから誰も何も言わないでいる。本人も分かってんだろと俺は思っていたが、もしかしたら本当に分かってないのかもしれない。人間、一度バカになったらもうどう足掻いても元には戻らないもんだね。
「こないだの生放送、呼んだんだけどよ、来るわけねえんだわ、あいつ」
 でしょうね。ブログも更新してないし。
「まあでもいいよ、あいつものすごい数プレスしちゃったからビビりまくってたけど、全部捌けるからな実際」
 ASKはそりゃもう、界隈でも五本指に入るぐらい人気がある。あいつのCDは界隈以外でも動いてる。俺はあいつの名前が出てる記事を書くだけでPV稼げる。便利だなあ。
「もう誰もあいつの目見て喋れねえよ。こっち側の奴はさ、みんなああいう連中とはどうしてもやってけないのばっかりだから。でも誰も文句言えねえだろ、あいつは自前で努力して、こっちでCD売ってるし、そっちじゃ念願の公務員になったんだろ? だから何も言えないわけ。ふざけんんじゃねえと思ってる奴はいると思うよ。お前が片手間にやってる間にこっちはバイトして食いつないでんだぞって、でも何も言えねえだろ。向こうは真剣に努力してどっちもこなしてるんだからさあ」
 尾野さんは二本目に手を出した。やってらんねえな。
「個人的には好きだよ、後藤」
 尾野さんと後藤はクルーを組んでいたことがあった。どっちもスキルはグンバツだったが、尾野さんは金持ちで、後藤は超人だったので、うまくいかなかった。尾野さんの金がどっから沸いて出てるか知らない奴は多分居ない。後藤はそういう、こっち側の人間じゃなかった。だから結局一人でやるしかなかった、あるいは、もっと浅い海でチャプチャプしてるより他なかった。あいつの声を遊ばせておきたくなくて、尾野さんはレーベルからCDを出すことを打診し、後藤はなんだかんだで快諾した。そうして次のアルバムが出る。一般流通するあいつのアルバムが。
 すんません。時間取らせて。
「謝るなら呼ぶな」
 はい。
 あと、もう一つ頼みがあるんですけども。
「何?」
 俺は笑った。鏡で自分の顔を見るとき、本当に気持ち悪いと思う。100人が見たら99人が火炎放射器で焼き払いたくなるような顔で、人間と言うよりはむしろブルドックに近い。ブルドックから愛嬌を取って代わりに生ゴミを詰め込んだらこういう顔になるのかもしれない。悪魔的な錬成実験をババアの胎盤でやりやがったクソ遺伝子をタイムパラドックスで焼き払ってやりたい。
「何よ」
 すんません、金貸してもらえませんか。



 バイト上がってまだ制服のままの俺を河川敷で出迎えた後藤はジャージ姿だった。
 自転車がガードレールに立てかけられている。高校の頃からこの自転車だ。マジで何も変わらないのかこいつは。意味わかんねえな。
「よ」
 よお。
 軽く右手を上げて俺は後藤の笑顔に答える。切りぬいてどっかの雑誌の表紙になりそうな笑顔、ジャケットでサオリ嬢に描かれた笑顔。不可能を可能にする、限界を踏み越えていく力強いボーカルの男。
「何してんの?」
 何って、バイト上がり。つうかマックで待ってていいって言ったじゃん。
「あー、なんか混んでてさあ? マック。もうそんな寒くないし、外でいいかなと思って」
 マジで言ってんのそれ?
「ハンバーガー喰う?」
 後藤はチーズバーガーを投げて寄越した。
 腹減ってたのでしゃにむに食べた。
 後藤もハンバーガーを喰っていた。俺らはガードレールに座ったままもくもくと飯を喰い、コーラを飲んで、ゲップを飛ばした。夜だった。ネオンを反射する曇り空は明るかった。桜もほぼ散るぐらいの頃で、もう春も過ぎていくぐらいだった。
「いろいろ考えたんだけどさあ」
 後藤は言った。たぶん俺が前に聞きたいと言っておいたことに関する返答についてだ。
「中学の頃、市内のほうに住んでたんだけどさ」
 俺はこのへんの人間じゃないから分からない。だが知っている。後藤の中学時代、まだ将来の何も確定していなかった頃。
「さくらはいっつも笑ってた。変な子だなって思った。あんまりいい立場じゃなかったからさ。家でも居場所がなくて、端的に言うと苦しんでた。でも俺もなんとなく馴染めないほうの人間だったから、さくらとはよく一緒に居た。それであいつもちょっとはマシになるならいいかなと思ってたよ。ネットの話聞いたのもあいつからが最初で、たぶんあれがなかったらマイク握ってなかった。一緒にライブ行って、でもそれ以上は何もなかった。ただあいつは俺に歌ってくれって言ったんだよ。恥ずかしいから嫌だって言ってたけど、俺がふざけたリズムで歌ってるのをあいつは見て笑ってた。そんで言ったんだ、ずっとあんたはそのままでいてくれって言った。いつも通りだよ、わけわかんないこと言うのなんかさ。でもその日は本当は別だったんだ。多分。でも俺は分からなかった。そんであいつは死んだ」
 飛び降りだ。即死だったそうだ。彼女は血だまりになり、その後灰にされ、そして空になった。
「その時さあ、なんか思ったんだよ。ああ、やらなきゃって。やらなきゃならないんだ俺が……そう思った。消防士になりたいと思ったのは後付なんだ。歌いたいっつうのだって後付だ。ただやらなきゃならないって思っただけなんだ。本当、それだけだったんだよ」
 それだけでお前は両方の夢を叶えた。
「でももう、本当に俺の歌を聞きたかった奴も、本当に助けたかった奴もいないんだ。何のために歌ってるんだろうな、俺は」
 俺はレコーダーを止めた。後藤はコーラのストローを口に咥えたまま爪先を眺めている。
 実はな。俺が本当にお前に頼みたかったことって、それじゃねえんだ。別件なんだよ。
「そっか。何?」
 俺は笑った。後藤はもう笑っていなかった。疲れ切った顔をしていた。youtubeで公開している曲の中にこの表情をしたものはないが、アルバムにはある。ASKもまた人間である限り、人間であるという以上の縛りから逃れることはできない。人間である限りは迷ったり立ち止まったりする権利があるのだ。
 信じらんねえ。笑っちまうよ。迷えるのは目標があるからで、立ち止まれるのは歩いてるからだ。じゃあどっちもできねえ奴は人間じゃねえのかな。宇宙人か? お先真っ青だ。
 ――あのさ、後藤、金貸してくんねえか。



「そんで?」
 それで終わりだよ。記事は適当に書きました。PVはまあ、いつも通り。
「違ぇよ、金だよ金。借りれた?」
 俺は黙って百均で買った果物ナイフの鞘を抜いた。
 あいつは笑った。それがもう、気色悪い笑みで、カエルの顔がドロッと腐って溶けていくような感じ。
「じゃあ、やれるな」
 やれるさ。いつだってやろうと思えばやれるんだ。ただやろうとしないだけで。



 失うもののない人間は最強だ。
 何だってできる。何も怖くない。喪失の恐怖がヒトを人生を縛り付ける。が、俺たちは解放されている。鍵のかかってない檻に入れられた獣だ。いつだって外に出ることができる。檻を眺めに来たバカづらの観客どもを喰いちぎってやることができる。
 手始めに俺は向こうから歩いてきた引っ越しのトラックの運ちゃんを後ろから刺した。何がなんだかわからず、運ちゃんは何歩か普通に歩いた。足りないかと思って首にナイフを突き立てた。運ちゃんは怒声を上げて振り向き、その時ようやく自分の首から噴出する血しぶきとご対面して、そのままブッ倒れた。地面が、塀が、俺の革ジャンが、返り血で真っ青に染まった。俺はトラックに飛び乗った。後ろからバイクに乗ってあいつが付いてくるのをサイドミラーで確認し、アクセルを踏む。
「俺はさ。後藤と同中なんだけどさ。あいつあの女と仲良かっただろ。やっぱりな、絶対そういうことだと思ってた。クラスに馴染めないとか言ってた? 最高だな、お前じゃねーよ、お前が馴染めなかったんじゃねーよ、クラスがお前に馴染めなかったんだっつーの。庭付きの一軒家で暮らしてる奴が団地のガキどもと話合うわけねーじゃん。あの女、そこんとこ周到だったんだろうな。あいつもどっかの妾腹だって話だったし。俺には関係ないけど。カーストはあいつが一番、あと有象無象が居て、その下に俺。俺は最底辺だった。全員俺が嫌いだった。嫌いとかでもないわな、そういう感情が入り込む余地とかなかったわ。もうなんか、虫が机にくっついててキモい、みたいな感じ。理由なんかねえ、そりゃ顔がキモいからでしょ」
 交差点は賑わっていた。駅のすぐ前だ。信号が変わり、車が流れ出す。几帳面に右折する車の波から飛び出す。俺は真っ直ぐに通行人が行き交う横断歩道に突っ込む。時間が遅延する。衝撃。前輪が人間を巻き込み、すぐ止まってしまった。アクセルをいくら踏んでもそれ以上突進しようがなかったので、俺は仕方なく外に出る。ガチャ、とドアが開く音を待っていたかのように、喧噪が悲鳴に代わる。火の手が上がるように声が立ち上がり、逃げ出さない奴がそれでもいる。状況がわかってねえのかうろちょろしてる奴、目の前に倒れてる人間を助け起こそうとする奴、たぶん警察にかけてんのかな、電話やってる奴。エキストラが思い通りに動かないのがトサカに来た。とりあえずふっとばされた人間を助け起こそうとしてる奴に駆け寄って、どこを刺そう……とりあえず庇うように差し向けられた手を蹴っ飛ばし、目の前に転がった脇腹に勢いよくナイフを突き立てる。さっきの運ちゃんと違ってこいつは刺さる前にもう叫んでいた。ああそうか、やっぱり重要なのは刺されることじゃなくて、「誰かが自分を刺し殺そうとしてる」ってことなんだな。絶叫する兄ちゃんのセーターが青く染まっていくのを見ながら俺は思った。今後の参考にしなくちゃ。
「あの女は本当にすごいよ。他の連中でもあいつぐらいヤバイことやってる奴はいなかった。マ●コにカッターぶち込まれた奴がいるって聞いたけど、あの目見たら嘘とは思えねえよ。人間の目じゃなかった。どこ見てるのかわかんねえ目で、一度俺を蹴飛ばし始めたら、もうなんか、スイッチ入ったみたいに蹴り続けてくるわけ。途中までヒューヒュー言ってた周りがだんだん飽きてくるぐらい。そんで最後に靴に火付けて帰るのね。もうなんか、イカれてた」
 俺が手当たり次第に横断歩道を真っ青に染めている間に、あいつがバイクで滑り込んでくる。キチった神経質なぐらい大事にしていたバイクを投げ飛ばして、「大丈夫ですか!?」と言いながら駆け寄る。俺は思わずあいつの様子を見守った。あいつは真っ青な顔で失血していく若い母親の顔をアイスピックで抉っていた。いいなあ、俺も若い女とか刺せば良かった。血脂に塗れてもうナイフはほとんど役に立たなかった。仕方がないので普段、バイトで使っているカッターナイフで首を刺す。首、首だ。首より上が一番手っ取り早く血が出る気がする。もう当たりには人がほとんどいなかったので、俺は乗り捨てられた車をいくつか物色して、キーが刺さったままの奴を見つけた。そしてあいつに声をかけた。あいつはまだお礼参りをやっていて、俺が駆け寄って肩を叩くまでやめそうになかった。
「あの女が死んだとき、別に何とも思わなかったけど。俺もはやく死ねば良かったのに。何でまだ生きてんだろうな」
 俺たちは知らない誰か、たぶん女の、かわいいマスコットがたくさん載ってる緑の軽自動車で、郊外まで走った。休耕田ばっかりで、遠くに街の高層ビルが見える、風が強くなってきて砂が巻き上がり、西部劇の荒野みたいになっていた。電車の走る音がする。夕暮れが近い。空が赤くなっていく中、俺たちの身体は浴びるに浴びた返り血で真っ青だった。お互いの顔の気持ち悪さに二人で指差し合って笑った。
 死刑確定だな。
「おめでとう!」
 おめでとう。乾杯!
 俺たちは二人で、青い血で滑る手で苦戦しながらビール缶を開けた。
 ふと見上げたバックミラーに、真っ赤なサイレンが映る。
 ついにやってきたのだ。



 どうしようもない人生だった。
 生まれた瞬間から負け確で、もう逆転の余地とか一切存在しない、それが分かってるのに、どうして終わらない? もう分かったよ。もう分かったから、これ以上どうしようもないのなんかもう十二分に分かったから。だからもう終わっていいのに、どうしてまだ明日が来るんだ。一時間900円で浪費される一生分の明日が来て、今日という苦痛になり、昨日という無意味に変わるのをただ黙って見ていることしかできない。もういいです。もう分かったので、本当にいいです。終わってください。
 終わらない。エンドロールなどどこにもない。ハッピーエンドでもバッドエンドでもなく、当然トゥルーも存在しない。エンディングなどないのだ。やめてくれ。もうやめてくれ! 俺はたしかにどうしようもない人間だから、それは分かりましたので、これ以上は! これ以上は勘弁してください!
 やめろ! やめてくれ、ふざけんな、やめろっつってんだろド畜生どもが! カラッポの頭で生きていくのがどんだけ虚しいか分かってんだろ!? ガワだっていらねえんだ、透明人間のくせに服着て歩いてんじゃねえ。ふざけんじゃねえぞ畜生どもが。
 何もない。俺が何もできないでいるのは、俺の中身が何もないからだ。あいつらには失くしたものがある。それは得たものがあるということで、それがあいつらに与えられたナイフだった。あいつですら歌っている。後藤じゃない、あいつは人間を恨んで、後藤のことも、後藤と仲の良かった女子のことも恨んでるが、あいつには歌がある。日陰でも歌い続けている。そういうやり方でしか血を流せない人間もいる。でも俺は、俺には本当に何もないんだ。100均で買ったナイフじゃ何人も切り殺せない。
 畜生、どいつもこいつも俺をバカにしやがって、お前らがただ黙って生きてるだけで俺は死にそうで、死にそうで死ねないままバカづらで生きていくことになるんだぞ。仕方がないから全員ブッ殺してやる。数万キロメートル四方ごとに水爆がまんべんなく落ちて地球はおしまいだ。真っ青に染めてやる。俺は俺自身の気色悪い形に歪んだ頭蓋骨を叩く。中身の入ってない頭を叩く。いい音鳴らせよ。カラッポならカラッポらしく響いてみろ。あいつらを全員ブッ殺して、俺のために誉れて死刑宣告を読み上げさせろ。俺は威風堂々の足取りで絞首台に向かってやる。それをあいつらに選ばせてやる。
 あいつは笑った。バカだなと言った。俺はグーであいつの頭蓋骨を殴った。鈍い音がした。いいですね、脳みそ。
 俺は車を降りた。そして足元に置かれた、青いペンキのなみなみ入ったバケツを手に取る。
 六十億人、誰一人残さず、真っ青に染めてやるからな。
 首洗って待ってろ。



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