もう、すでに、そこにある。

*ぼくもこう、身の丈に合わない夢をついつい見ちゃう性格だからね、ずーっと「すばらしいものを、うつくしいものを作りたいなぁ」って思ってたのよ。作りたいとばかり思っていたって、できないんだけどね。手を足を頭を心をちゃんと動かさないとできないんだけど、今回はそういう話じゃあない。ま、白川青年は(わりと今でも青年だぜ)、すばらしい、うつくしいものを(自らの手で)つくりたい(生み出したい)って思っていたんですなぁ。

しかし、ぼくが最近大好きになった演劇を何度もなんども繰り返し見ているうちに、気付いたのだ。その演劇は「相対性理論」や「光」「音」「星」「地球がなくなる」話で、構成からひとつひとつの言葉選びまでほんっとうつくしい物語なんだけど、よくよく考えてみれば、演劇として物語として脚本としてうつくしいその前に「光」や「星」や題材にしているものが、そもそもうつくしくてたまらないのだ。そもそもうつくしいものを題材にしている、うつくしい脚本で演劇なのだ。

ああ、そっか。なにも自分で一からうつくしいものを生み出せなくたっていいんだ。もうすでに、ぼくらが生きているこの世には、うつくしいものがたくさんあるじゃないか。うつくしく見えるものが、ぼくらの立っている場所にはすでにたくさん存在しているじゃないか。ひとりでにうつくしいものを生み出すことはむずかしくても、すでにあるうつくしいものたちを繋げたり、足したり掛けたり引いたり組み合わせたり、描写したりして、うつくしいものたちを題材に、うつくしいものをつくることならおいらでもできるかもしれない。ぼくたちにうつくしいものを生み出す力はなくても、それを見守ったり描いたり観測したり思ったりする力ぐらいはあるはずだ。

もう、すでに、ある。この考えは、立ち止まったりしたときに、たびたび思いかえそう。すでにあることを思い出す。足るを知るってのはこれで足りるでしょ?ってことじゃなくて、こういうことなのかも。


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