私の愛は三百キロあります

*むかーし、なんでもかんでも「単位」がついちゃったら、コワイことになるよってエッセイを書いた。たしかそのときは「目盛り」と書いてたと思うんだけど、ま、ようするに、「愛」に単位ができたらどーすんの?ってことだ。「私の愛は三百キログラムありますよ、どうでしょう」って言われても、重いと感じる人もいれば軽いと感じる人もいるだろう。いや、せいぜい百キロに満たない女性が三百キロの愛をどうやって抱えてるのかも、知りたいところだけどサ。

「単位」というのは、いわばみんなに伝わるように決めておきましょう、ってものだ。つまり、私と誰かがいて初めて生まれるもので、社会的なものだと言っていい。「でかいアリ」と言ったとき、人間くらいばかでかいアリを想像する人もいれば、ちょっとだけ大きいサイズのアリを想像する人もいる。しかしそこに、重さや長さや大きさの単位があれば、「1メートルくらいのでかいアリ」と表現することができる。それが当人にとってでかいかどうかは置いといて、イメージを共有することができる。

つまり、単位とはみんなのもの、社会のものなのだ。「おれの1メートルはこれぐらいあるんだぜ」なんてことは、ゆるされないのだ。1メートルは1メートルで揃えられる。重さも大きさも、時間でさえも単位だ。

しかし、だよ。単位は単位であって、感じ方は人それぞれのはずだ。同じ2時間でも、甲子園で熱闘を繰り広げる球児たちと、二次会で入ったカラオケの2時間は、同じ単位でも違う気がしない?映画を見て「おもしろくてあっという間だった!」って感想をみんなが抱いたとしても、「あっという間」の短さはきっと人それぞれでちがうはずだ。単位は単位であって、感覚までも揃えられるわけではない。

これが、おもしろいなぁと思う。スカイツリーが666メートルだから「でかっ!」ってなるんじゃない。でかいから、「でかっ!」と思うのだ。数字にびびってるんじゃなく、あのそびえ立つ大きさに驚くのだ。反対に、冒頭に書いたようなまだ単位のつけられていないものたちに、単位がついたなら、どんな感じなんだろうね?「愛の重さで人を計る」みたいなおかしなことができちゃうんだろうか?

そういえば、星や月を見るのも、そうだよなぁ。何万光年という時間を使って呼ぶ距離の単位を、ぼくらは微塵もイメージできないものね。あれは、イメージできないほど遠くにあるからいいのかもしれない。


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