深さよりも太さ

*ひきつづき、死に関する本を読んでいて、思ったこと。死について、死にまつわることを考えるための回路が、なんとも痩せ細っているなぁと感じた。これはぼく自身はもちろんのこと、もしかすると世の中という単位に広げてみても、そうなのかもしれない。死をタブーとして置いたからこそ、死がけっこう距離のある遠いものになった。そのため、なかなかその場所へと行き来することがなくなった。

出た結果、つまり考えや思考がなかなかふくらんだものではないのも、そのための回路が痩せ細ってしまっているからなのだ。道を整備しないことには、使われない。死を身近に経験したかどうかよりも、その回路をたくさん往き来したかどうかのほうが、だいじなんじゃないか。何度も往き来して回路を太くしないことには、実も痩せ細ったものになる。死についての回路を太くする、それはつまり「生きるを考える」についての回路を太くすることにもなる。

「深さ」よりも「太さ」なのだ。深さはあくまでひとつの結果であり、なにかを考えることにおいて、さして重要な要素ではない。むしろ、深く深く考えたって、誰も辿り着けない深さでそのまま野垂れ死ぬ、なんてこともある。それに、専門家がうんと頭を使って考えた答えが、素人の意見だったりするなんてこともある。そこでのおおきな差は、深さが同じでも、それまでの太さがちがうんだもの。「深さ」よりも「太さ」なんだ。過程とされる道のりを、何度往き来してきたか。ぼくの回路は、どこがどう太くて、どこが痩せ細っているだろう?


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