お守りと神様と人間。

*昔から神様という存在がよく分からなかった。これはきっと、ぼくが韓国籍で、いわゆる日本の風習をそこまで踏襲していなかったことがおおきいと思うのだけれど、神社に行ったりしても手を合わせている人を見て、何に手を合わせているのだろう?と純粋に思っていたし、「神様」と言われても、会ったことも見たこともないから分かんねえよ、なんてことを思っていたし言ってもいたと思う。やーね、イジワルな子どもだよね。

いわゆる、「お守り」とか「おみくじ」とかも、特に信じていなかったのよ。「お守り」なんて、お金のムダじゃーん程度に思っていたし、「おみくじ」なんて、どうして会ったことも見たこともない知らんやつに運勢を勝手に決められなきゃいけねえんだ、べらんぼうめ!くらいに思っていた。でも大人になってというもの、ぼくは普通におみくじをアトラクション感覚で楽しむ。

「お守り」も、自分で買ったこともなければ、人にあげたこともなかった。が、この前来てびっくりしたんだけど、身内が車を買うから近くの神社にお守りでも買いに行こうか、ってそのぼくが提案したんだよね。

実際に神社まで歩いて、交通安全のお守りを買った。なんならそのとき、ぼくは「自分用」でもひとつ買っておこうかな、なんて思ったのだ。そう思った自分に気付いて、あれ、昔の自分だったらまったくそんなこと思わなかったのに、と驚く。これが大人になるということなのだろうか。

どうしてそう思ったのだろう、と考えてみても、なかなかしっくりくる答えが出ない。なにかあったとき「お守り」が守ってくれるというような、身代わり的な発想もない。強いていうならば、「吊るされたお守り」が目に入るたびに、気をつけて運転しようと思うだろうな、ということくらいだ。逆に言えば、お守りというのはそういう効果があるのかもしれない。

「お守り」が本当に、何かから守ってくれるかどうかは分からないし、科学的に証明もされていないだろう。しかし人々はお守りを買う。お守りを買うことで、安心を手に入れたいのだ。そして、そのお守りが目に入ったり、思い出すたびに、安心を心に取り戻し、なおかつその安心を続けようと意識する。このことは、スピリチュアルなことでもなんでもなく、人間の心理だ。なんだろう、おもしろいもんだし、大人になったもんだよ、おいらも。

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